第25話 継続


「君には棚の片づけをお願いしたいから、あとで一緒にやろう。一緒にやりながら分類方法を説明する。中には機密書類もあるから、屋敷の使用人には頼めなくて」


 リアムからそう言われ、オリヴィアは微笑みを浮かべた。


「はい、分かりました」


「執事のハーバートなら問題なくすべて処理できるんだが、彼は彼で、兄が抜けたあとはてんてこまいな忙しさで。だからこの部屋の棚は今、散らかり放題」


「大変ですね」


「こういう時はかえって、忙しくしているほうがいいのかもしれないが」


 リアムがふと、つらそうに瞳を伏せた。しかし彼が隙を見せたのは、ほんの一瞬のことだった。すぐに気を取り直したように顔を上げる。彼の美しいアメジストの瞳がオリヴィアのほうに向けられる。


「その前に急ぎでサインしなければならない書類がいくつかあって――ちょっと待っていてもらえる?」


「ごゆっくりどうぞ」


 オリヴィアが控えめにそう言うと、その言い回しが可笑しかったのか、リアムの口角が微かに上がった。


 彼が書類を広げ始めたので、オリヴィアは席を立ち、窓際に歩み寄った。


 ……いいお天気……


 窓を開けてみる。風は吹いていないようだから、書類が飛ばされることもないだろう。


 大きな窓は、ドアのように押し開くタイプだった。ドアノブを捻り、バルコニーのほうに押し出す。


 すると少し先にある森の香りが、染み入るように入ってきた。このお屋敷は本当に住環境が素晴らしい。


 寒いような陽気でもないし、しばらく窓を開けておこう。


 自席に戻ろうとして振り返ると、リアムがこちらを眺めていることに気づいた。


 オリヴィアは照れたような笑みを浮かべる。


「……窓を開けておくと、バッタが入ってきてしまうかしら?」


「僕は別に、バッタが嫌いなわけではないんだ」


「そうですか? さっきはバッタの件で、大人げなく神様を恨んでいたように記憶していますが」


「そんな罰当たりなことはしないよ。……それ、一体誰の話?」


 リアムは『ひどいやつがいるものだね』というように、わざとらしく眉根を寄せている。どうやら先ほどの悪態を、なかったことにしようとしているようだ。


 オリヴィアはくすくす笑い出してしまう。


「リアムさんは都合の良い記憶力をお持ちですね」


「そうなんだ。よく褒められる」


 話しながらも、彼は書類をデスクの上に並べていく。


「――中身はもう確認済なんだ。あとはサインするだけ」


「サインして終わり?」


「実は、封筒に入れて、封蝋を押す必要もある。宛名もいるな」


「何通あるんです?」


「急ぎのものは十通」


「手伝いますよ。その……私が中身を見ても問題ないなら」


 サインは代われないが、封筒に入れたり、封蝋の準備をしたりはできる。


「結構な機密書類ではあるけれど、普通の人間は見ても意味が分からない。それに君の場合は、理解できたとしても、外に漏らしたりしないだろうし」


「信用していいのですか? 私がスパイなら大打撃ですよ」


「この書類の内容を理解できる教養があって、かつセントクレア公爵家に客人として招き入れられた者なら、これを外部に漏らすような馬鹿な真似はしない」


 なるほど、とオリヴィアは感心してしまった。


「あなたは私の背後にいるワイズ伯爵家を信用しているのですね。ワイズ伯爵家とお兄様が偽装結婚の契約を交わしたから?」


「僕はワイズ伯爵家なんか信用していないよ」


「では……」


「君を信用しているし、兄を信用している。僕は偽装結婚の相手である『クロエ・ワイズ』がどんな人間か知らない。だって僕が選んだ相手ではないから。重要なのは、兄がクロエ・ワイズを契約相手に選んだということだ。……正直、兄の気持ちは分からないけれど、少なくともクロエという人を家に入れても構わないと考えたのは確かだ。君は代理とはいえ、今当家にいるのだから、僕は君を信用すべきだと思って」


 ――彼から『クロエ・ワイズ』と呼びかけられ、オリヴィアは少しドキリとした。ここでは『オリヴィア』で通すように、ワイズ伯爵夫人からキツく言い含められている。


 けれど考えてみれば、書類はミドルネームの『クロエ・ワイズ』で作成されている。


 こちらサイドの弁護士であるホリーはオリヴィアとは昔馴染みで、こちらをずっと『クロエ』と呼んでいた過去があるから、その名前で書類は作成された。


 バンクス帝国ではミドルネームがある場合はミドルネームで呼び合う慣例があるので、その延長で、書類作成時もミドルネームのほうを使用するのが一般的である。結構重要な書類であっても、平気でファーストネームを省いてしまう。


 これは、書類の最後に家長がシグネットリング(家紋が彫られた指輪)で印を押すので、たとえ名前を省略したとしても、なりすましは起こりようがないためである。


 契約書にはオリヴィア自身もサインをしたので、『クロエ・ワイズ』で作成された実物を見ている。条文の表記がそうなので、サインのほうもそれにならった。


 だからリアムが『クロエ』の名を知っているのも当然だ。彼は兄の死後、偽装結婚の書類に目を通す破目に陥ったのだから。


 ――オリヴィアは『クロエ・ワイズ』の名前がリアムから飛び出したことに動揺しすぎて、彼の台詞の最後のほうで『?』という引っかかりを覚えたことを、そのまま流してしまった。


 彼が『君は代理とはいえ、今当家にいるのだから』と言った時、『代理ってなんだろう?』と思ったのだ。……『私はクロエ・ワイズ本人であり、誰かの代理ではないのだけれど、なぜそんな言い回しをしたのだろう?』と。


 彼の言い間違いか、こちらの聞き間違いか……もしもこの時、オリヴィアのほうに余裕があったなら、『代理、ですか?』と聞き返していたかもしれない。そうしたら彼から言葉の説明がされたはずである。


 けれど彼女はそれをしなかった。それでこの奇妙な行き違いは、またしても継続されることになる。



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