第20話 私とずっと一緒にいたら、飽きませんか?
セントクレア公爵家の食事があまりに素晴らしかったので、オリヴィアは考え込んでしまった。
……恵まれすぎていないかしら?
自分が寝泊まりさせてもらうのは、素敵な内装の、眺めの良い上等な部屋。
三食、温かいご飯もいただける。しかもそれは手の込んだ、一流の料理。
そして夫となる人は、ものすごく優しい。これは偽装結婚の尻拭いなのに、それでも優しい。
……え、ちょっと待って、なんでこんなに優しいの? 彼、あんなに優しくて大丈夫なのかしら?
たとえばオリヴィアが変態な悪女だったとして、『夫なんだから、夜も私と一緒にいてよー』とか面倒なだだをこねて、ベッドに潜り込んだとしたら、彼はさすがに怒るのかしら?
……ん? 怒るわよね? さすがに。
……いえ、こちらはそんなことを絶対にするつもりはないけれど……でも万が一……もしもこちらがそんな無茶をしたとしても、彼は怒らなそうじゃない?
困ったような笑みを浮かべて、ポンポンと頭を撫でてくれそう。『じゃあ仕方ない、一緒にすごすのは五分だけだよ。さすがに一緒に寝るのはだめだから……て、ああ、ごめん。悲しそうな顔、しないで。あとで君のベッドに抱っこして運んであげるから』とか拒絶なんだか溺愛なんだか分からないことを言いそう。それで本とか読み聞かせてくれそう。結局五分を超過して、なんだかんだ一時間くらい付き合ってくれそう。根拠はないけれど、不思議とすごくしっくりくる妄想だわ……。
思考が脱線しかけて、オリヴィアは眉尻を下げ『私、どうしちゃったのかしら』と情けない気持ちになった。しっかりしなくては。
そう――とにかく彼は素晴らしい人だ。それは間違いない。
――それで、もらうばかりでいいのかしら? と思って。
これが兄マシューとの偽装結婚だったなら、オリヴィアもそんなに心苦しく感じなかっただろう。なぜならマシューは『お飾りの妻』を求めていたからだ。
マシューはむしろ何も干渉してこない相手を求めていた。『妻として頑張ろう』なんて考える前向きな女性は、御免こうむるとさえ思っていたようだ。オリヴィア自身はマシューに会ったことはないけれど、あいだに入っていた弁護士のホリーがそう言っていた。――マシューの希望はただひとつ――外ではにっこり笑って、家族のフリをしてくれれば、それでいいと。
けれど弟のリアムはどうだろう? 居候妻がぬくぬくと遊び暮らしていたら、見る度にイラッとしないだろうか。
「あの……」
食事が終わり、オリヴィアは少し緊張しながら彼に声をかけた。
これまでずっとニコニコ顔で料理を楽しんでいたオリヴィアが、急にオズオズとした態度に豹変したので、リアムは驚いた様子である。
「どうかした?」
「私、できれば、その……」
なんと言ったものかしら? オリヴィアが言葉を探していると、
「何か嫌に感じたことがあった? ……もしかすると僕は無神経なところがあったかもしれない」
リアムが予想外のことを言い出したので、オリヴィアは呆気に取られて、彼の端正な顔を眺めた。
十九歳のリアムは八つも年下なのに、こうして見ると大人の男性という感じで、全然年下感がない。外見がどうこうではなく、情緒が安定しているから落ち着いて感じられるのだ。
そんな彼から寂しそうに見つめられると、オリヴィアは頬がかぁっと熱くなるのを感じた。
「あなたのどこを探しても、無神経なところは見つからないわ」
「そう? なんだか言いづらそうにしているから、初日で嫌気がさして、出て行きたくなったのかと」
「まさか!」
「本当に?」
「ええ」
オリヴィアがしっかりと頷いてみせると、リアムが安心したように、口元に淡い笑みを浮かべた。
端正な彼から物柔らかな瞳を向けられ、オリヴィアはますます顔が熱くなってくる。
言葉を出すのが難しくなりつつあったが、これ以上彼を困らせるのも嫌で、思い切って口を開いた。
「あの、私、何かお仕事をお手伝いしたいのですが」
「仕事?」
菫色の瞳に驚きの色が浮かんだ。……断られるかしら。でもどうか断らないで……オリヴィアは心の中で念じる。
「これからずっと何もしないで寝泊まりさせていただくのも、申し訳なくて」
「そんなことは気にしなくていい」
「でもやっぱり、何かしたいです。――私、パールバーグではずっと事務系のお仕事をしていました。たいしたことはできませんが、猫の手よりは役には立つと思います。書類を綴じたり、片づけたり、なんでもいいので、雑用があったらやらせていただけませんか?」
機密情報をオリヴィアが見聞きするのはマズいだろうけれど、雑用ならば任せてもらえるのではないか……そんなふうに考えて、申し出てみた。
リアムは少し考えてから、
「じゃあお願いしようかな」
と頷いてくれた。
――わぁい、嬉しい! オリヴィアの頬が緩む。『リアムさんて、ほんといい人ですね!』と思いながら、へへ、と笑いかけると、なぜか彼が片手で額を押さえて俯いてしまった。
……どうしたのだろう?
「リアムさん?」
「……いや、大丈夫。ありがとう。君が来てくれて、助かった」
「よかったです」
「兄が急に亡くなったので、色々困ってはいたんだ。人手が足りなくてね。誰かを新たに雇うとしても、信用できる人物を選定しないといけないし、なかなか難しくて」
「そうでしたか」
「僕の執務室に君が使うデスクを運び入れるよ。そこで書類の整理をお願いしようかな」
「え」
オリヴィアはびっくりしてしまった。執務室って、結構な機密書類が置いてあるよね? そこに入れても構わないと思うほど、信用してくれているのだろうか?
……いえ、そんなわけないか……
これはきっと偽装結婚の件で、互いに契約で縛られているせいだ。そういえば契約書には秘密保持に関する条項があった。オリヴィアはセントクレア公爵家で見聞きしたことを、絶対に外部には漏らしてはいけない。
もしも外部に漏らした場合、五百年くらい働き続けても返せないくらいの莫大な違約金を支払う破目に陥る。だから考えようによっては、オリヴィアは誰よりも安全な人材なのだ。
「うん? 何かまずい?」
リアムが小首を傾げるのを見つめながら、オリヴィアはふとあることに思い至った。
そうか……執務室に出入りし始めたら、ずっと彼と一緒ということだ。一日のうち結構な時間を共に過ごすことになる。食事の時間のほかに、さらにもっと……と彼を独占するような行為だ。
耳まで熱くなってきた。
「……リアムさんは嫌ではないですか?」
「何が?」
「私とずっと一緒にいたら、飽きませんか?」
思い切って尋ねると、リアムが呆気に取られ……
次の瞬間、彼の頬に朱が差した。狼狽し、すっかり赤面した彼を見て、オリヴィアのほうも体温が一気に上がる。
彼が困ったようにこちらを見つめ返し、掠れた声で呟きを漏らすのを、オリヴィアはどうすることもできずに聞いていた。
「飽きることがあるのかな。……君はどうなの? 僕とずっと一緒にいて、飽きない?」
……もうだめ。
オリヴィアは俯き、手のひらで顔を覆ってしまった。
……耳が熱い……千切れそう。
「飽きそうにありません。……ごめんなさい……変なこと言って」
「……オリヴィア、僕も同じ気持ちだ」
リアムの弱り切った声が耳に届いたけれど、オリヴィアは『彼に気を遣わせてしまったわ!』とますます恥ずかしくなってきた。
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