第21話 ユリの花


 ――翌日。


 朝食は食堂ではなく、日当たりの良いテラス席で取ることになった。


 オリヴィアは大好きな庭を近くで見ることができて心が浮き立ち、リアムをニコニコ顔で見つめた。


「リアムさんはいつもこんな素敵な場所で朝食を取っているのですね」


 彼は相変わらず麗しくて、目の前のとびきり美しい庭園に負けないくらい華やかだった。彼の振舞いにはまるで気取ったところがないのに、ちょっとした動作が優雅で、見惚れてしまいそうになる。


 オリヴィアはふと、『このお屋敷がゴージャスなのか、あるいは彼がこの場に存在しているからゴージャスに感じられるのか、どちらなのだろう』と考えていた。


 もしかするとリアムなら、パールバーグの港町で暮らしていて、気軽に露店に立ち寄って朝食を注文したとしても、キラキラしてゴージャスに見えるのかもしれない。


「今日は特別。いつもは自室でササッと済ませる」


「そうなのですか?」


「この庭園が好きだと、君が言っていたから。テラス席で朝食を取ったらどうかな、と思いついて。今日から君に仕事を手伝ってもらうから、ご機嫌を取っておかないとね」


 悪戯な口調。オリヴィアは笑みを零した。


「それなら大成功ですね! ハッピーな私は今日一日、世界で一番親切な女性になれるかもしれません」


「それはよかった。――じゃあ本当に君が世界一親切かどうか、試してみようかな」


「どうやって?」


「怒らせてみる、とか」


「やってみてください。面白そう」


「君の卵料理を、僕が食べてしまうというのはどう? 食べ物の恨みは恐ろしいと言うし」


「あら、私の卵料理をあなたが食べてしまったら、きっとシェフが新しいものを作ってくださるわ」


「確かにそうだ。当家のコックは君の実家のコックと違って、親切だから」


 リアムは昨夜のやり取り――オリヴィアが昔コックに意地悪された件を持ち出して、からかってくる。オリヴィアはおかしくなって、ふふ、と声を立てて笑ってしまった。


「そうですね。このお屋敷に親切なコックさんがいる限り、リアムさんが私を怒らせるのは無理そうです。諦めて」


 それからふたりは、『この世で一番美味しいと思う卵料理』をプレゼンし合い、無駄に熱のこもった議論を交わした。互いに負けを認めなかったので、勝負は引き分けとなった。


 ――ポカポカした日向を思わせる、明るいお喋りの声と、時折漏れる笑い声。


 庭の手入れをしていた庭師のガス老人は、この楽しいお喋りを耳にして、思わず笑みを浮かべていた。白い口髭をたくわえていたので、彼が口角を上げているのは分かりづらかったが、目元は楽しげに和んでいる。


 彼が草木に触れる手はいつも優しいが、今日はいつもより丁寧だった。


 ――三十分後、ガス老人は見事なユリの花を両手に抱え、侍女のゲルダに声をかけた。


「……こちらをあのお嬢さんの部屋に飾ったらどうだろう。お屋敷にいらしたばかりで、まだ慣れていないだろうから、綺麗な花でも眺めたら嬉しいかと思って」


 オリヴィアはこの屋敷に十分馴染んでいるように思えたが、ゲルダは野暮なことは言わず、節くれ立った大きな手を伸ばして、その花を丁重に受け取った。相変わらずゲルダの目つきは殺し屋のように鋭いものの、その口角は粋に上がっている。


「どんな花瓶が合うかしらね」


「あの深い青のやつはどうかね? ユリの花に合うよ」


 ガス老人が答える。――彼が提案した花瓶は国宝級の一品で、特別な来客があった際に出すものだ。


 ゲルダは少し考えを巡らせ、うん、と頷いてみせた。


「いいわね。そうしましょう」


 使用人たちは今回オリヴィアがやって来た経緯を、ぼんやりと知ってはいるけれど、正確なところは理解していない。(正確に知っているのは執事のハーバートだけで、口の硬い彼は余計なことを口外しないから)


 使用人たちが知っているのは、『リアム様は家同士の決め事で、花嫁をもらうことになった。その女性はクロエという名前の伯爵令嬢らしいが、約束の日にやって来なかった。少し問題のある方かもしれない。そしてクロエが約束を破ることになったので、お詫びのため(?)先方のお宅から寄越されたのが、今滞在しているオリヴィア嬢。そしてオリヴィア嬢も貴族の出らしい』――このくらいだ。


 偽装結婚だの、契約上断れない話だの、そういったことを知らない使用人は、『もしもオリヴィアさんがこのお屋敷を気に入ってくれたら、クロエさんの代わりに花嫁になってくれるかも』と考え始めていた。


 オリヴィアはまだやって来たばかりで、使用人のほとんどは直接彼女と関わっていない。――けれどあるじであるリアムの、あの楽しそうな顔を見てしまったら。


 塞ぎ込んでいた少し前の彼を知っているだけに、屋敷の人間は皆、明るいきざしを求めていた。


 それに使用人たちも、マシューの死を深く悲しんでいて、ずっと暗い気持ちで過ごしていたから、オリヴィアの存在が眩しくもあったのだ。


 マシューは本当に良い当主だった。外に対する彼の振舞いは完璧で、この大帝国の中でも、もっとも貴族らしい貴族であると言えた。


 使用人はこの家に雇われているから、セントクレア公爵家という大きな船に乗っているようなものだ。――当主が優秀なら、この船が沈むことはない。その点でマシューは理想的なあるじだった。


 優秀なだけでなく、生前のマシューは下の者に親切でもあった。だから彼は屋敷の使用人にとても慕われていた。


 そしてマシューは弟のリアムを大切に想っていた。それは彼らを近くで見ていれば、誰にでも分かったことだ。


 ベタベタ干渉するわけではないが、マシューは弟のことを実によく見ていて、どうしても助けが必要だろうという、ここぞという時には必ず手を差し伸べていた。それもリアムの成長を妨げないように、時期をよく見極めて。


 そんなふうにマシューが弟を大切にしていたので、屋敷の者もまた、リアムのことを深く敬愛するようになった。


 十九歳のリアムがこれだけ周りに支えられているのは、マシューがその土台を築いておいたからなのだ。


 皆、リアムが幸せになることを願っていた。兄のマシューがあっという間にいなくなってしまっただけに、切実に。


 そしてそれを可能にする誰かがいるとするなら、それはきっとオリヴィア嬢に違いない――皆、なぜかそう確信していたのだ。


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