第2話 ゴージャスな職場


 現在二十七歳、独身のオリヴィア。


 彼女は安馬車に揺られ、嫁ぎ先である高名な公爵家に向かっていた。


 風の強い日で、柔らかな赤毛がふわりと乱される。


「もうすぐ着くよ!」


 老齢の御者が振り返ってそう告げてきた。座席が箱で囲われていないので、御者席とのあいだに壁はない。


 オリヴィアは少し前のめりになり、車輪が回る騒々しい音に負けぬよう、声を張った。


「あの、教えてくれてありがとう!」


「あんた、セントクレア様のお屋敷でメイドとして働くのかい? あそこに勤められるなんて、ものすごくラッキーだねぇ!」


 御者の目尻に細かな皴が寄る。人の良い性格らしく、他人事ながら、オリヴィアの行く末が明るいことを喜んでくれているようだ。


 ……でも私、メイドとして働くわけではないのよねぇ。オリヴィアはそんなことを考えながら、照れたように笑ってみせた。本当のことを打ち明けられなくて少しバツが悪かったのもあるし、相手の優しさに対して感謝する気持ちもあった。


「ほら見てごらん、もうお屋敷の屋根が見えてきた」


 御者に促され、右斜め前に目を向けたオリヴィアは、目に入ったものが信じられなくて、あんぐりと口を開けてしまった。


「え?」


 やだ、嘘でしょう? 何あれ、王宮でもないのに、屋根があそこから始まって……あっちのほうまで続いているの? ものすごいお金持ちって聞いていたけれど、ここまでとは!


「……あんなところに嫁ぐなんて、私、大丈夫かしら」


 オリヴィアは瞳を揺らしながら小声で呟きを漏らし、『参った』というように、思わず口元を押さえていた。




   * * *




 お屋敷のエントランスに迎え入れられたオリヴィアは、見事な大理石の床を見おろして、足がすくんでしまった。


 それから恐る恐る顔を上げると、ホールはずっと上のほうまで吹き抜けになっていることに気づいた。高窓から差し込む陽光が、天から降り注ぐ祝福のように淡く輝いている。荘厳で、この上なく優美な光景。


 天井の曲線、柱と柱の間隔、窓のデザイン、すべてのバランスが完璧に整っていて、美しい。


 セントクレア公爵邸は、オリヴィアがこれまでに目にしてきたどの建築物よりも、群を抜いて素晴らしかった。


「私は執事のハーバートと申します」


 そう礼儀正しく名乗ってくれたのは、五十歳前後の、押し出しの良い上品な紳士である。


 オリヴィアは常識的な彼の態度にホッとしながら、貴族令嬢らしい品のある礼をとった。


「今日からお世話になります、オリヴィア・ワイズと申します」


 この時の彼女は『ここではちゃんとオリヴィアと名乗らなければ』という、そのことで頭がいっぱいになっていた。


 彼女はこれまでずっとミドルネームである『クロエ』を使用してきた。祖国で悪役令嬢と呼ばれていた時も、国を追われてパールバーグ国で十年暮らしていた時も。


 けれど実父のワイズ伯爵は、これを良く思わなかった。この度大国に嫁ぐことになった娘に対し、『セントクレア公爵邸では、絶対にクロエという名前を使ってはならない。今回の結婚を機に、評判が悪すぎる忌まわしきあの名を封印するのだ。ファーストネームのオリヴィアで通しなさい』と命じたのだった。


 ――ところが。


 これにより、奇妙な行き違いが生じることになる。


 執事のハーバートは慎重に尋ね返した。


「……オリヴィア・ワイズ様、ですか……? ええと、失礼ですが、あなた様はワイズ伯爵家にゆかりのある方なのでしょうか?」


 ハーバートは『嫁いで来るのは、クロエ・ワイズ伯爵令嬢だったはずでは?』と戸惑いを覚えていた。クロエは年齢が二十七歳だと聞いている。しかし目の前にいるのは、どう見ても二十歳前の可愛らしいお嬢さんだし、本人は『オリヴィア』だと名乗っている。けれど姓は『ワイズ』だって? それに彼女はさっき『今日からお世話になります』と言っていた。


 一体どういうことだろう?


「あ」


 オリヴィアは目を丸くし、自らの失態を悟った。


 どうしよう、うっかり間違えてしまったわ!


『クロエと名乗ってははだめ』ばかりに意識がいっていて、もうひとつ実家から注意されていたことを失念していた。――それは『ワイズ伯爵姓を使用するべからず』というものだ。


 オリヴィアの家庭環境はかなり複雑で、実父のワイズ伯爵は三度の結婚と、二度の離婚を繰り返している。


 ワイズ伯爵の二番目の妻が『オリヴィア』を産み、現在の三番目の妻が『クラリッサ』を産んだ。妹のクラリッサは現在十一歳で、オリヴィアよりもだいぶ年下である。


 妹(クラリッサ)の母である現ワイズ伯爵夫人の実家は裕福で、強い力を持っていた。その夫人が最近になって、『ワイズ伯爵家は私の娘、クラリッサが女伯として継ぎます。オリヴィアは長いこと家を出ていたのだし、十代の頃に大変な問題も起こしているでしょう? だから対外的には夫が持つもうひとつの爵位、ギル子爵姓を名乗るとよろしいわ』と宣言したものだから、家族は何があってもそれを守らねばならない。


 そんな訳で自分は『オリヴィア・ギルです』と名乗らなければならなかったのだ。


 オリヴィアは眉尻を下げ、『やってしまった』と考えていた。


「あの、ごめんなさい、私はワイズ伯爵家から来た者でして、つい……」


 動揺からモゴモゴと口ごもってしまう。名前すらちゃんと名乗れなかったという落ち込みと羞恥で、頬が燃えるように熱い。


 貴族社会から長いこと離れていたため、こういう対処が下手になっている。パールバーグで十年暮らした庶民の世界はもっとずっとシンプルで、関わってきた誰も彼もが大雑把だった。


 執事のハーバートはこれに大層困惑してしまう。……なぜ赤くなる? 本当はワイズ姓ではないのに、咄嗟にその家名を名乗った――つまり嘘をついたということか? 普段から虚言癖があるものだから、その悪い癖がポロッと出た?


 ハーバートは微かに顎を引き、硬い声でさらに尋ねた。


「肝心の、ワイズ伯爵令嬢はどちらにいらっしゃるのです? 今日こちらに到着するとうかがっていたのですが?」


 問われたオリヴィアはパチリと瞬きした――ワイズ伯爵令嬢! そう名乗る権利がある、この世にただひとりの人物は、腹違いの妹、十一歳のクラリッサ・ワイズだけ。


 それで尋ねられたことに、慌てて答えた。


「これからこちらのお屋敷にお世話になるのは、私ひとりです。ワイズ伯爵令嬢は後日――ええと、おそらく数か月後? 今回の結婚が成立する前には来る予定ですので」


 普段はクールな妹だが、姉の結婚により、大帝国イーデンスを訪ねる口実ができて、かなり喜んでいるようだ。彼女は祖国バンクスから出たことがなく、海外に来るのもこれが初めてなので、今は実家で色々と準備をしている。


 こちらに着いて姉の結婚式に出たら、しばらくはイーデンスに留まって、あちこち見て回るつもりだと言っていた。獲物を見つけた猫ちゃんみたいなキラキラした目で、イーデンス帝国への憧れを語っていたクラリッサは、なんだかすごく可愛く見えたものだ。


「……承知いたしました」


 これに対して執事が不快そうに眉根を寄せたことに、考え事をしていたオリヴィアは気づけずにいた。



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