第3話 毒婦クロエ
執事のハーバートは謎の令嬢を応接間で待たせておき、あるじであるリアム・セントクレアの執務室に向かった。
重厚な黒檀の扉をノックしてから中に入る。
普段は品の良いあるじが、マホガニーのデスクに行儀悪く腰かけ、半身になって書類に目を通していた。
その様子は若々しく華やか。
しかしそれを逆向きに引っ張るような、不思議な落ち着きがあるじにはあった。どちらの要素もしっかりと主張しているので、まるでシーソーのように互いに行ったり来たりしているかのようだ。
完全無欠の彼に突き抜けた陽気さがないのは、家庭環境が複雑だったせいだろうか。
リアム・セントクレアは十九歳。
つい先日、兄のマシューが結婚を目前にして不慮の事故で亡くなったので、弟であるリアムがそのすべてを継承することになった。
ゲイだった兄が纏めた偽装結婚契約――リアムは十九歳の若さで、その尻拭いをしなければならない。
――リアムが顔を上げ、手持ちの書類を指で軽く弾きながら、入室してきた執事に告げる。
「私の妻になるクロエ・ワイズはなかなかの毒婦のようだな。これが先ほど届いた彼女の調査書だ」
「調査書、届くのが遅かったですね」
事前に知らされていたのは、彼女の名前と、年齢だけ。詳細な経歴がやっと分かったようである。
「彼女は遠く離れた属国の人間だから、調査に手間取ったようだ。兄ももう少し慎重に相手を選んでから、契約すればよかったものを。……ゲイを隠すための偽装結婚だから、相手などどうでもいいと考えたのだろうか」
聞き手のハーバートはこれに違和感を覚えていた。先日不慮の事故で亡くなったリアムの兄マシューには、不思議な魅力があった。頭もずば抜けて良かったし、四方八方を明るく照らし出すような、強烈なカリスマ性が彼にはあった。
当国は同性愛に否定的な意見が根強くあるものの、ハーバート個人としては、そんなことはどうでもいいと思っていた。少し頑固で、前時代的なところのあるハーバートにそう思わせてしまうくらい、マシューは人間的に魅力があったのだ。
豪放磊落(ごうほうらいらく)――といったらいいのだろうか。ああいった、些事にこだわらないわりに、成果をしっかり上げるタイプの人間は、ここぞというポイントは確実に要領よく押さえておくものである。
マシューとリアムの父はまだ健在なのだが、現公爵である彼には放浪癖があり、今もどこかをほっつき歩いていて、屋敷にいない。先日、マシューの葬儀には一応出たものの、それが済むとさっさとまた家を出て行ってしまった。
これは今に始まったことではなく、昔から公爵は貴族の役割をまるきり果たしていなかった。だから長男のマシューが若い頃からずっとその代理を務めてきたのだ。先日、三十手前で亡くなるまで、ずっと。
マシューは非常にクレバーだった。――そんな人が、偽装結婚とはいえ、問題だらけの女性を公爵家に招き入れるだろうか?
ハーバートはマシューの面影を思い出し、強い胸の痛みを覚えた。……ああ、だめだ……彼のことを考えるのはよそう。耐えられそうにない。
ハーバートは話に集中することにした。
「クロエ様はどのような方なのでしょう?」
「十年前、十七歳の頃は、皆から悪役令嬢と呼ばれていたらしい。同い年のマーガレット・ガースンという令嬢に、かなり陰湿な嫌がらせを繰り返して、当時の婚約者から愛想を尽かされた」
「嫌がらせの理由はなんですか?」
「嫉妬、と書かれているが、詳細は分からない」
「……なるほど。マーガレット嬢は可愛らしく、異性にモテるタイプだったのでしょうか」
女性が女性を嫉妬していじめる際にありがちな理由を、ハーバートは述べてみた。
それを聞いたリアムは伏し目がちになり、小さくため息を吐く。……まったく厄介なことになった、とその端正な顔に書いてあった。
「そのようだな。現に苛められていたマーガレット嬢はその後、クロエと婚約していた男と結婚したとメモ書きがしてあるから、ふたりは当時から惹かれ合っていたのかも。ただ――クロエは当時婚約者だったのだから、感情に振り回されずに我慢していれば、なんとか彼と結婚はできたかもしれない。愛のない結婚をしている貴族はたくさんいるからな。だというのに、強固に縛られた政略結婚を覆すほどの悪さをするとは、よほどイカレている」
「もしかすると」ハーバートは気休めを口にすることにした。「婚約破棄はむしろ相手方に非があったかもしれませんよ? こう言ってはなんですが、大抵の貴族令嬢は気が強いものです。実際にご本人に会ってみたら、許容できる範囲内かもしれません」
「ハーバート」何を言われても、リアムが慰められることはない。「逆に言うと、気が強い女性に慣れているはずの紳士が、これはお手上げだと匙(さじ)を投げたんだぞ。――つまり我々は物好きにも玄関を開け放って、これから怒り狂っているスズメバチを迎え入れるわけだ。ああ、そうそう――報告書には『クロエは男遊びが派手』とも書いてあるから、発情した興奮状態のスズメバチ、ということか」
ハーバートは『ところが、でしてね』と心の中で呟きを漏らした。佇まいを正し、あるじに報告をする。
「ワイズ伯爵家から来たご令嬢を、応接間に通していますが」
「ああ、馬車が着いてからだいぶたつな。――長旅で疲れた、早く夫となる人物に会わせろと大騒ぎしているか?」
「いえ、それが」
ハーバートは一瞬言葉に詰まった。あまりに奇妙なことで、なんと言っていいか分からなかったのだ。少し考えを巡らせてから、結局ありのまま、よく分からないと告げることにした。
「いらしたのはクロエ様ではありません」
「はぁ? じゃあ誰が来たんだ」
「ワイズ伯爵家と縁のあるご令嬢が、おひとりでいらしています」
「なぜ?」
「彼女は当家にしばらく滞在するつもりのようです。そしてその女性は対面してすぐに、『オリヴィア・ワイズ』と名乗りました。しかしどうやらワイズ姓ではないらしい」
「よく分からないな。なぜ咄嗟にワイズ姓を名乗った?」
「私にもよく分かりません。……存在を大きく見せるのが目的だったのでしょうか? 『自分はワイズ伯爵家の血縁者だから、丁重にもてなしてくれ』と」
「しかし親戚というだけで、伯爵家の姓を名乗るのは、図々しいんじゃないか?」
「そうですね……」
「それでクロエはどうしたんだ。――もしかして私は彼女と結婚しなくて済むのか? それなら大助かりだが」
「オリヴィア様がおっしゃるには、ワイズ伯爵令嬢は数か月後、入籍前までにはこちらに来るとのことです」
「おいおい、正気か」リアムの顔に嫌悪の色が浮かぶ。「花嫁はもったいぶって約束の日にやって来ず、その代わりに、平気で名前を偽ることができる、心臓に毛の生えたご令嬢が現れた――そしてその彼女は当家にしばらく泊まるつもりだって?」
「そういうことになりますね」
どいつもこいつも、なんという常識のない……リアムは苛立ちを覚えたものの、オリヴィアが通されているという応接間に急ぎ向かった。
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