第49話 ディラン・コックスの後悔
息を呑むオリヴィアに対し、ディラン・コックスは表向き冷静そうに見えた。
こちらの様子を無言で確認しているようでもある。――彼の視線がオリヴィアの頬のあたりや、瞳、口元のあたりを彷徨っているのが分かった。
オリヴィアは足に力を入れ、慌てて体勢を立て直した。もう転びそうな状態を脱しているし、離れようと身じろぎしているのに、ディランがお腹に回した手を離そうとしないので、『もう大丈夫です』という意志を込めて強引に身を引く。
ディランは少し名残惜しそうにオリヴィアの鎖骨やレース・チョーカーを流し見てから、そっと拘束を解いた。
「……少し話せる?」
何を? オリヴィアは戸惑っていた。今回夜会にやって来たのは、マーガレットから話があると呼び出されたからだ。正直なところディラン・コックスと会話をするつもりはなかった。
――なんとなくこの場に留まっていたペアソンは、ディラン・コックスから『ふたりにしてくれ』というアイコンタクトを送られ、憮然とした表情を浮かべた。途中でしゃしゃり出てきて、また横取りする気か――そう思ったものの、向こうは伯爵家で、こちらは子爵家なので、逆らえるはずもない。そこで無言で背を向けて、この場から去った。
――一方、適切な距離を取ってディランと対峙したオリヴィアは、疑問に思ったことを口にしていた。
「私がクロエだとよく分かりましたね」
イーデンス帝国に来てからはずっとファーストネームの『オリヴィア』で通してきたので、長年ずっと使ってきたとはいえ『クロエ』というミドルネームを口にするのは、なんだか変な感じがした。
「背格好でなんとなく……あとは髪の色とか」
なるほど。当時の自分は原形を留めないくらいに濃いメイクをしていたのだが、体型や髪質はあの頃と変わっていない。今回後ろから接近してきたディランは、そういったところから同一人物だと判別したらしかった。
――ディランのほうは精悍さが増し、当時の印象から少し変化している。目鼻立ちにかつての名残りはあるのだが、顎のラインがしっかりしたせいで、オリヴィアが苦手としていたあの独特の感じが薄らいでいた。今の彼の顔ならば、オリヴィアも『牧師に似すぎていて吐きそう』とまでは思わない。
いえ、あるいは、そう――オリヴィア自身が変化したのだろうか? あれからもうだいぶたつ。心の傷は時間が癒してくれたのかもしれないし、人との出会いが過去を乗り越える力をくれたのかも。オリヴィアはイーデンス帝国に渡り、リアムと出会い、前を向くことができた。だからかつて自分にひどいことをしようとした、あの牧師の面影を思い出すことはもうないのかもしれない。
「君は十七歳の時、なんであんな格好をしていたんだ」
ディランの言葉が不安定に揺れる。硬い口調でありながら、彼は少しだけ笑いながら話してもいた。嘲笑交じりなのか、混乱して笑うしかなかったのか、オリヴィアにはよく分からなかったのだけれど。
ディランの顔は苦しげでもあった。彼はたぶんオリヴィアを責めていた。
「……意味なんてないです」
「嘘だ」
「どうしてそう思うんです?」
「君は――だって本当の君は違う」
「何を言って――」
「今目の前にいる君が本当の君なんだ、そうだろう? あの時、本当の君を知ってさえいれば!」
なぜそんなに苦しそうなの? オリヴィアには理解できない。かまどに火をともしてもいないのに、なぜか知らぬ間に鍋が煮え立ってしまったみたいだった。
「僕が選ぶべきは、マーガレットじゃなかった」
彼はほとんど泣きそうになっている。
「マーガレットは違ったんだ……僕は間違えた……」
「あなたたちは結婚したのでしょう?」
「なぜだ……何が起きたんだ? 馬鹿げている」
「あの、コックスさん」
「他人行儀だな、当時はディランと呼んでいただろう」
「だってそれは」
「僕たちは婚約者同士だった」
「もう終わった話です」
「何も終わっちゃいない、なんでだ――なんで僕はマーガレットと結婚する破目になった? 全然好きなタイプじゃない、彼女のことなんか愛せない」
オリヴィアは絶句した。……何を言っているの? そんなことを言われても困る!
――全然好きなタイプじゃない、ですって? 嘘はやめて。十七歳当時、あなたはマーガレットのことを『可愛い』と言っていたはず。
どちらにせよ、選んだのはあなたよ。オリヴィアは確かにディランを求めていなかったし、縁談が壊れるように目的を持って行動した。けれどその後彼がマーガレットを選んだことについて、オリヴィアが責められる筋合いはないはずだ。
ディランは公衆の面前でオリヴィアに婚約破棄を言い渡し、その場ではマーガレットが特別な相手であるかのように皆に知らしめた。オリヴィアは彼と婚約解消したかったが、あんなふうに見世物にされる筋合いもなかった。彼はもう少しやり方を選べたはずだ。
「マーガレットはほかの男とも寝ている」
「え?」
オリヴィアは呆気に取られた。内容そのものよりも、こんな公の場所で家族の恥を口に出した、彼の神経が信じられなかった。
しかしディランは取り憑かれたかのように、虚ろな目で続ける。
「先ほど君にちょっかいをかけたペアソンとも寝ているし、もっと問題のある相手とも寝ている。――そのうちのひとりは、あのマクドウォール公爵だぞ、考えられるか?」
「……ああ、なんてこと」
オリヴィアは呻くように呟きを漏らした。
マクドウォール公爵と? ――ありえない。相手が悪すぎる。普通の神経なら絶対にそんな馬鹿な真似はしないだろう。
「マクドウォール公爵夫人はすでにこの件を掴んでいる。――近い将来、マーガレットは粛清される。これはもう避けられない」
マクドウォール公爵夫人は他国の王家から嫁いできた女性だ。バンクス帝国よりもずっと小国の王女であるが、プライドが恐ろしく高い。彼女はその苛烈さから『血の王女』と呼ばれている。
公爵夫人は曲がったことが大嫌いで、周囲が怒らせるようなことをしなければ、特に困ったことにはならない。けれど肝心の夫が彼女をしばしば激高させるのだ。
夫人は夫を深く愛しているので、裏切られても、結局最後は彼のことを許す。しかし夫と火遊びを楽しんだ相手の女性は、例外なく悲惨な末路を辿ることになる。
「公爵夫人が、娼婦上がりの夫の愛人を犬に食べさせたという噂を知っているか?」
「だけどそれは、作り話でしょう?」
ブラックジョークにもなっていないような、悪趣味な作り話。
「そうかな。僕は……そんなにありえない話でもないと思っている」
オリヴィアはゾッとしてショックを受けていたが、ディランのほうは心が冷めきっているようだった。彼の瞳は凍えるように冷たい。なぜかオリヴィアは彼が、『マーガレットはそうされて当然』と考えている気がしてならなかった。
奇妙な時間が流れた。
オリヴィアは居心地の悪さを感じていた。それはディランが微かに眉根を寄せ、縋るようにこちらを見つめてくるせいかもしれない。
彼が半歩距離を詰めてきたので、オリヴィアは背中を向けて逃げだしたくなった。
――ディランがこちらに手を伸ばしてくる。
その時――
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