第50話 マーガレット


「クロエ! クロエじゃない?」


 場違いに甲高い声が響き渡った。ディランは鞭打たれたかのようにハッとして、オリヴィアのほうに伸ばしかけていた手を引っ込めた。


 ――『クロエ』と呼びかけてきた声は、ディランの背後から響いてきた。オリヴィアが左に体をずらすと、向こうからマーガレットが微笑みを浮かべて歩み寄ってくるのが見えた。


 十年を経ても、彼女の容貌はあまり変わっていなかった。マーガレットは昔から典型的な美人顔をしていた。本人は『目が少し細くて嫌』と十代の頃はよく不満を漏らしていたのだが、オリヴィアからすると『え、そうかしら?』という感じだった。


 ……ただ、今のマーガレットは口角だけが不自然なほどに上がっていて、目の奥がまるで笑っていなかったので、目つきの鋭さが強調されて凄みがあった。温かみも陽気さも皆無の、ただ刺々しいだけの空気をまき散らしている。


「クロエったら、さっそく私のディランに話しかけていたの?」


 マーガレットはディランの隣に辿り着くと、蛇のようにしなやかな動作で夫に腕を絡めた。――ディランが一瞬顔を顰め、それを払い落とそうとするような素振りを見せたのだが、マーガレットはさらに彼に密着して、力業でこれを防いでしまった。こういう時のマーガレットはものすごく力が強い。この痩せた体のどこにこれだけの力が? と不思議になるほどだ。


 ――マーガレットの半歩後ろに控えていた女性が、オリヴィアのほうに会釈してきた。


「……アンバー?」


 オリヴィアがその女性に声をかけると、アンバーは眉尻を下げ、困ったような笑みを浮かべた。


「久しぶりね、クロエ」


 アンバーは昔からマーガレットの取り巻き一号だった。アンバーには『鼻がほかの人より大きい』という本人なりに切実な悩みがあって、そのことをマーガレットにからかわれては、泣きそうな顔をしていた。彼女があまりに悲しそうだったので、オリヴィアは『あなたの顔は上品で、私はとても好きだわ』と本心を伝えたことがあったのだが、アンバーは傷ついた様子でチラリとこちらを流し見て、『あなたはマーガレットにいじめられていないから、いいわよね』と返してきた。


 ……ふたりはまだつるんでいたのね。マーガレットの手紙にも『冴えない見た目の、近視のアンバー。子爵令嬢だったけれど、今は伯爵夫人よ。あの子と化粧品を作ってね、上流階級に紹介しているの』と書かれていたけれど、実際にふたりがこうして一緒にいるところを見ると、不思議な感じがした。


 どうして嫌いな相手と長年一緒にいられるのだろう? 相手の家格が圧倒的に上ならば逆らえないかもしれないが、このふたりはほぼ同格のはずだ。それともアンバーはマーガレットのことが好きなのだろうか。


「やだもう、クロエったら! 『アンバー?』と呼び捨てにするなんて!」


 マーガレットが甲高い声で笑い声を上げる。何が可笑しいのか知らないが……オリヴィアは次第に人目を引きつつあることに気づいていた。マーガレットの声が大きすぎるせいだ。


 ただでさえオリヴィアは、『あのリアム・セントクレアが、婚約者として紹介した女性』として、この夜会で注目を浴びている。その話題の女性が何かに巻き込まれているようだとなれば、誰だって興味を引かれるに違いなかった。


「アンバーは冴えないけれど、今や伯爵夫人なのよ! もっと敬意を払ってね」


「だけどマーガレット」アンバーが控えめに申し出る。「クロエはセントクレア公爵家に嫁入りするのよ。家格は圧倒的にあちらが上よ。――しかも私たちのバンクス帝国は、イーデンス帝国の属国なのだから」


「セントクレア公爵家に嫁入りと言ったって、この先どうなるか」


 マーガレットは芝居がかった調子でそう言い、わざとらしく眉尻を下げてみせる。


「きっと、そう――お相手は結構なお年なのね? クロエはその方の介護の仕事でもしていたのかしら? それで見そめられた? だって魅力的な若い男性がクロエを選ぶとも思えないもの」


「そんなことない、クロエはとても可愛いと思うわ。昔から変わらない」


 オリヴィアはアンバーがこんなふうにマーガレットに逆らうのを初めて見た。アンバーは喧嘩腰でこそなかったものの、マーガレットの言うことにいちいち反論する。


 マーガレットは明らかに気分を害していた。


「可愛い? どこが? クロエは全然美人顔じゃないし」


「でも顔立ちは整っているわ。それに優しいのが滲み出ている――」


「外ヅラがいいのよ、クロエは。いかにも冴えない連中に好かれそう」


 混沌としてきた。全員が迷路に嵌まり込んでいるような状態なのだが、誰も危機感を抱いていないように思える。


 マーガレットは性格の良し悪しは別として、以前はもっと賢く立ち回ることができる女性だった。ところがどうだろう……彼女の振舞いはあまりに子供じみている。年月が彼女に図々しさを与えたのか、あるいは、オリヴィアが公爵家に嫁入りすることが、マーガレットから冷静さを奪ってしまったのか。


 オリヴィアは途方に暮れてしまった。――この不毛なやり取りにオリヴィアが参戦しても、マーガレットの怒りはヒートアップするだけだろう。けれど放置して良いこともなさそうだった。この夜会に出席しているイーデンス帝国の貴族たちに、これ以上恥を垂れ流し続けられるのもつらい。


 オリヴィアが心細さを感じていると、不意に背後から優しい声で呼ばれた。


「――オリヴィア」


 次の瞬間、オリヴィアは温かく安心できる存在に包み込まれていた。


 彼は背中側からオリヴィアをハグし、彼女のこめかみのあたりにキスを落とした。――それは親密でありながら、不思議と優美な動作だった。


 オリヴィアの口元に自然と笑みが浮かぶ。少し後ろ体重になり、彼に寄りかかるようにしながら、オリヴィアは照れたように呟きを漏らした。


「来るのが遅いわ、リアムさん」


「ごめん――というか君、元の位置から少し動いたよね」


「そうだった? 動いていないと思うけれど」


 ……動いたかしら?


「しばらくして姿が見えなくなったから、化粧室にでも行ったのかと思っていた」


「じゃあ、そうね――私はこっそり移動して、あなたの視力をテストしたのかも」


 言われてみると、クラリッサと一緒にご婦人方のドレスを眺めていて、リアムと別れた場所から少し動いたかもしれない。彼は奥まったところにいたウェザビー婦人に挨拶に行っていたが、オリヴィアが移動して死角に入ってしまわなければ、ずっと状況が確認できていたはずなのだ。


「こっそり移動するなんて、もしかして僕の愛を疑っている?」


「いいえ。ただ視力を疑っているだけ」


「視力はいいんだ。だってね、ふたりきりになった時、君が照れた顔をしているのもよく見えているし――」


「リアムさん、ストップ」


「いっそ強制的に僕を黙らせたらどうかな? 君がキスしてくれたら、僕は言葉を忘れるかも」


 オリヴィアは頬を赤く染め、背後から腕を回している彼のほうを振り返った。オリヴィアの眉尻は可愛く下がり、彼に対して怒っているのか、大好きよと伝えているのか微妙なところである。


「……お願いもうやめて。ものすごく恥ずかしいわ」


「君は照れ屋だね」


「いいえ、普通です。あなたのネジが飛んでいるだけ」


 ――ところでふたりのやり取りを、口をあんぐり開けて眺めている人たちがいた。


 まず、イーデンス帝国の貴族たちは、普段クールなリアム・セントクレアが、恋人に対してはこんなにも甘やかに話しかけるのかという衝撃を受けていた。


 セントクレア公爵家は兄のマシューがずっと取り仕切っていて、弟のリアムが表に出てくることはこれまであまりなかった。――ところが兄が不慮の事故で亡くなり、なんとなく沈みかけたムードだったところへ、残されたリアムはイーデンス帝国の伝統にのっとり、早々に身を固めるつもりであるという。


 年若い彼は礼儀正しく、知的で、好感の持てる青年だった。それに顔が美しく、驚くほどスタイルが良い。――結局のところ、これに尽きるのだった。最終的に容姿で判断してしまうのは、いさかか軽薄であるかもしれないが、綺麗事をどんなに掲げようとも、大抵の人は初めから終わりまで見た目に囚われる生きものである。だからつまりリアム・セントクレアは、人々から絶大な人気を得ていたのだ。


 そんな彼が連れてきたお相手は、大方の予想を裏切り、なんとも可愛らしい女性だった。――セントクレア公爵家ともなると、完全に政略結婚で相手が決まるだろうから、婚約者を紹介する場では、もっとよそよそしい空気が漂うのではないかと思っていた。


 ところがまるで違った。


 お相手のオリヴィア嬢は確かに可愛い女性だが、とはいえ目が飛び出るような絶世の美女というわけではない。それなのにどうやら、リアムのほうが彼女にゾッコンのようである。――オリヴィアを見た人々は、『リアム・セントクレアは美人系よりも、可愛い感じの女性が好みだったのか』と感慨深い気持ちになっていた。




   * * *




 ――近くでふたりの仲の良さを見せつけられる形となった、ディラン・コックスの心の中は嵐だった。


 こんなに可愛いクロエを僕は知らない。頬を染め、照れて、甘えている――なぜだ――ちょっとしたボタンのかけ間違いで、おかしなことになってしまった。もしも運命の悪戯さえなかったなら、今ここで彼女に触れているのは自分だったはずだ。


 ――この十年、冷え切った家庭をマーガレットと築いてきた。


 けれど同じテーブルを囲む相手が、クロエだったなら? きっと笑みが絶えなかっただろう。


 もしも同じベッドで眠る相手が、クロエだったなら? 僕たちは情熱的な恋人同士になれたはず。


 けれど現実はそうなっていない――ディランが結婚したのは、いけ好かないマーガレットだ――誰とでもすぐに寝るような、安っぽい女と家族になってしまった。


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