第51話 脇役の逆襲


 マーガレットは開いた口が塞がらなかった。


 ……目の前の、見たこともないほど綺麗な男性は、一体誰?


 美しい金色の髪を長く伸ばし、後ろでひとつに括っている。バンクス帝国では男性がこのような髪型をしているのを見たことがない。大帝国イーデンスともなると、男性はこうも洒落ているものなの? いえ、でも――そこらにいる普通の男性がこの髪型をしていたなら、マーガレットは嘲笑していたかもしれない。――全然似合っていないわ、それ、おやめなさいよ、と。


 それに彼の瞳――すごいわ、まるでアメジストのようじゃないの。なんて綺麗なのかしら。瞳は涼しげなのに、どこか艶っぽくもある。


 この男性に抱きしめられたら、どんなに素敵な気分だろうとマーガレットは思う。ところが現実に彼が抱え込んでいるのは、地味でなんの取り柄もないクロエ・ワイズ――悪役令嬢と呼ばれ、皆に嫌われていたクロエ・ワイズなのだ。


「クロエ……クロエ、その方はどなたなの?」


 マーガレットの声が掠れた。握り締めている扇がミシリと軋んだ音を立てる。


 クロエが何か言おうとしたタイミングで、なぜか傍らにいたアンバーが図々しくも口を挟んだ。


「マーガレット、彼はセントクレア公爵家の方よ」


「そんな馬鹿な」


「いいえ、そうなのよ。クロエは彼ともうすぐ結婚する」


「ありえないわ――クロエなんて、どうしようもない悪役令嬢じゃない!」


「違うわ、あれはお芝居だった――そうでしょう?」


 アンバーの口調がゾッとするようなものに変わった気がした。


 それまでは正面にいるクロエと、彼女を抱え込んでいる素敵な男性を凝視していたマーガレットであるが、違和感を覚えて斜め後ろを振り返った。――すると、いつも従順で眉尻を下げてばかりいた冴えないアンバーが、顎を引き、こちらを嫌な目つきで睨み据えていることに気づいた。


 アンバーの瞳の昏さに囚われそうになったマーガレットは、背筋がゾッと寒くなった。


「……アンバー? あなた、どうしたの?」


「ねぇ、マーガレット――私、マクドウォール公爵夫人から伝言を預かっているの――ほら、あなたが『大変懇意にしている』マクドウォール公爵夫人よ!」


 マーガレットの顔から表情が消えた。――正確に言うならば、マーガレットが『大変懇意にしている』のは、マクドウォール公爵――つまり『夫』のほうである。


 マーガレットとしては、夫人のほうとはなるべく関わり合いになりたくなかった。けれど『血の王女』と呼ばれている夫人をコケにするのは、楽しい遊びではあった。彼女の旦那を寝取ることで、マーガレットは夫人をおちょくり続けていたのだ。


 ところが一時の快楽と引き換えに、大きな代償を支払うことになりそうである。危険な遊びに手を出す前に、最後はどうなるか結末を予想できそうなものであるが、なぜかマーガレットは根拠もなく『自分は大丈夫』と信じ込んでいたのだ。しかしそんなことはなかった。マーガレットはもう逃げられない。


 ずっとマーガレットに虐げられてきたアンバーは、残酷な笑みを浮かべる。


「マクドウォール公爵夫人はこうおっしゃっていたわ――『マーガレットさんには、私が可愛がっている犬の面倒を見ていただきたいわ』――ねぇ、この意味、分かるわよね?」


 マーガレットの顔色はいまや紙のように白くなっている。そして彼女の細い手はカタカタと震え始めていた。


 マクドウォール公爵夫人の犬――ではあの猟奇的な噂は本当なの?――マーガレットは牙を剥いた猟犬が飛びかかってくる幻影を見た気がした。


 アンバーが続ける。


「マクドウォール公爵夫人は、ここでクロエの名誉が回復されることを望んでいる」


「……なんですって?」


 マーガレットは訳が分からない。――マクドウォール公爵夫人とクロエ・ワイズのあいだにはなんの繋がりもないはずだ。繋がりがあるとするなら――まさか、現ワイズ伯爵夫人が関係している? クロエの継母にあたるワイズ伯爵夫人は、マクドウォール公爵夫人と懇意にしていなかったか。義理の娘クロエの名誉が回復すれば、ワイズ伯爵夫人にとっては喜ばしいことだろう。クロエに愛情はなくとも、伯爵家の品格に関わる問題だから。


 アンバーは戸惑うマーガレットを無視して、足を前に進めた。そうして目立つ場所に躍り出た彼女は、芝居がかった調子で声を張り上げた――『周囲にいる皆さん、よく聞いてください!』と言わんばかりに。


「当時十七歳だったクロエは、友達のあなたのために、嫌われ役を引き受けた――そうよね? クロエは優しい子だもの! あなたはクロエの優しさに縋ったの――ディラン・コックスに熱烈に恋したあなたは、クロエに頼んだ――『悪役令嬢』になって、私をいじめるフリをして、と。あなたはいじめられていることをディランにアピールして、同情してほしかったのよね? 作戦は大成功! あなたはディランと結婚することができた。そうでしょう?」


 マーガレットは何もできずに立ち尽くしていた――けれど傍らのアンバーは圧をかけ続けてくる――早く認めなさい――そうするしかもう道はないの――


 マーガレットは大きく息を吸った。そして誰かに操られている糸繰り人形のように、ぎこちない動きで正面を向いた。


 マーガレットはオリヴィア・クロエ・ワイズの顔を虚ろに眺めながら、平坦に告げる。


「ええ、そうなの。クロエは優しかったから、私に協力してくれた」


「クロエにはね」アンバーがにっこり笑う。「十代の頃から夢があったの――それは広い世界に飛び出して、見識を広めることだった。彼女は『悪役令嬢』のお芝居を見事に演じきったあと、弱冠十七歳でなんとパールバーグ国に渡ったのよ! そこで造船の技術を学んだのですって! バンクス帝国出身者の中で、彼女はもっとも先進的な女性よ! 彼女は見た目の可愛らしさだけではなく、素晴らしい知性も持ち併せている! セントクレア公爵家のリアムさんが惚れこんだのも当然ね!」


 アンバーがオリヴィアを見つめ、感極まったといった様子で拍手を贈ってくる。見物を決め込んでいたギャラリーもパラパラとそれに加わった。


 マーガレットは無表情のまま黙り込んでいた。途中でアンバーがスッとそちらに身を寄せ『いいから、笑いなさい』と低い声で囁くと、途端にマーガレットの口角が歪に持ち上がり、彼女も拍手をし始めた。


 ……オリヴィアはすっかり困惑していた。


 背後からハグしているリアムのほうをそっと振り返る。


「……これを仕込んだのは、あなた?」


「いいや」リアムが小さく首を横に振ってみせる。「ああ、もう……なんてこった。僕が仕込んでいたものは、これで全部無駄になった」


「そう」


 リアムも攻撃材料を用意していたようだが、この空気になったらもう出す意味もない。マーガレットは完全に詰んでいる。


 すべてが徒労に終わったリアムは『やれやれ』という顔をしていた。


「こんな間抜けな話がある? 結局、僕は君のために何もしていない」


 リアムが難しい顔をしているので、オリヴィアは柔らかに微笑んでみせた。


「そんなことない。あなたは私のそばにいてくれる」


「だけどなんの役にも立っていないよ」


「違うわ。あのね、私……あなたがマーガレットに何もしなくてよかったと思っているの」


「どうして?」


「大人は戦わなければならない時があるけれど、やらないで済むのなら、それはそれでラッキーよ。それよりも私は、今、近くにいて包み込んでくれるあなたが好き」


「……気が合うね。僕も君が大好きだ」


 リアムは眩しげに瞳を細め、口元に綺麗な笑みを乗せた。


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