第48話 うろたえるオリヴィア


「――君はバンクス帝国の人?」


 ひとりになった途端、そんなふうに声をかけられ、オリヴィアは驚いてしまった。


 え……私に言っている? それすら定かではなかったが、声のほうに顔を向けると、相手はしっかりこちらの目を見ているので、やはりオリヴィアに話しかけているようだ。


「ええ、そうですが……」


 答えながらオリヴィアは『あれ?』と思った。……この男性を知っているかも……ええと、誰だっけ、確か……


 名前が出てこない。バンクス帝国の貴族子息であるのは確かだ。ディラン・コックスの友人だったはず。ふたりがつるんでいるのをよく見た。


 オリヴィアはこの男性と十年前に会っている。とはいえ彼はあの時、憤怒の表情を浮かべていた。だというのにこうして十年ぶりに異国の地で再会し、よく彼の顔を覚えていたものだと、自分自身に感心してしまった。


「ほら、さっきまで君はクラリッサ・ワイズと一緒にいただろう? それでもしかしてバンクス帝国とゆかりのある女性なんじゃ? と思ってさ」


「……なるほど。ええと、あなたは……」


「ペアソン。会ったことない? ……て、あるわけないか、俺、可愛い女の子のことは、一度会ったら忘れないし」


 ペアソン――そういえばマーガレットの手紙にその名前が書かれていたわね。オリヴィアは昔、激高したペアソンに頬を叩かれそうになったことがあった。暴力沙汰を嫌うディラン・コックスが慌てて止めてくれたから、叩かれなくて済んだのだけれど。


 ペアソンという男には当時から屈折したところがあったように思う。背がわりと小柄で、顔立ちはよく見ると整っているのだが、人気のあるディラン・コックスと一緒にいるとどうしても霞んでしまうらしく、いつも自分が二番手に回されてしまうことに腹を立てていた。


 オリヴィアは周囲に視線を走らせた。――ペアソンがここにいるということは、マーガレットもすでに会場に着いているのだろうか?


 けれどざっと確認したところでは、彼女の姿を発見することはできなかった。


「君の名前は?」


 問われ、ペアソンのほうに視線を戻す。彼は獲物を前にした蛇みたいな目でこちらを見据えている。


 名前……名前ねぇ……オリヴィアは答えに詰まってしまった。


 大昔に敵意剥き出しで殴りかかってきた男に、馴れ馴れしく名前を訊かれているのだ。答え方を間違ったら、十年前の惨劇ふたたび、なんてことになりかねない。


 ところが彼は何を思ったのか、


「いやぁ、分かるよ」


 と言ってきた。


 え、何が? オリヴィアのほうは何も分かっていない。


「ペアソンと僕が名乗ったものだから、『やだ、この方、ペアソン子爵家のご子息だわ! 恐れ多い!』ってびびっているんだろ?」


「え? あの」


「だってね――君はバンクス帝国の出らしいのに、俺たちは互いのことを知らない――それはつまり、だ――君は貴族階級に属する女性じゃないな?」


 なんなのこの迷探偵。彼に任せておいたら、事件はすべて迷宮入りね。


 オリヴィアが馬鹿げたことを考えていると、ぐい、とペアソンが顔を近づけてきた。――気づいた時には、互いの鼻と鼻のあいだがニ十センチくらいしか開いていない。ぎょっとしたオリヴィアは右足を後ろに引き、思い切りのけ反った。


 ひぇえええ、とうろたえる彼女に対し、ペアソンは目をギラギラと見開いている。


「ねぇ、このあとデートしない?」


「しません」


「俺が貴族とか気にしなくていいから」


「いえ、そこは気にしていなくて」


「君、本当に可愛いなぁ」


「きゃあ、肩に触らないで」


 ゾゾ、と鳥肌が立つ。オリヴィアの上げた悲鳴はか弱く、目の前にいるペアソンにやっと届くかどうかの小さなものだった。そして当のペアソンは拒絶だとすら思っていない様子で、さらに距離を詰めようとしてくる。


 オリヴィアは慌ててさらに後退しようとして、ヒールが絨毯につかえてバランスを崩した。


 あ、転ぶ――……


 ギュッと目を閉じた途端、誰かに後ろから抱き留められた。手をお腹に回され、すっぽりと包み込まれる。


 オリヴィアは目を開き、縋るような気持ちで振り返った。――リアムが助けにきてくれたんだわ、よかった! と思いながら。


 ところがオリヴィアを支えてくれたのは、大好きなリアムではなかった。


「……クロエ?」


 至近距離で真上からこちらを覗き込んでいるのは、かつて婚約関係にあったディラン・コックス、その人だった。


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