第47話 夜会が始まる
ビッセル伯爵は親切な紳士だった。――年齢は五十代半ばくらいだろうか。骨格がしっかりしていて、いかにも健康そうに見える。
ビッセル伯爵はいつも表情が明るく、嫌味がなかったので、オリヴィアはすぐに彼のことが好きになった。伯爵のほうにも何か通ずるものがあったのか、オリヴィアを実の娘のように温かく迎え入れてくれた。そして亡くなったマシューのことを悼みつつも、リアムが訪ねてくれたことを心から喜んでいるようだった。
夜会の数日前に到着した一行は、伯爵の屋敷でのんびり過ごすことになった。
広大な屋敷は細部まで丁寧に手入れがされていて、濃い色の煉瓦壁や、可愛らしい窓の形が魅力的だった。森の奥に迷い込んでしまったような、ひっそりとした雰囲気がある。とても大きな屋敷ではあるけれど、まるで妖精が住んでいそうな不思議な感じもしたので、クラリッサは目を輝かせて喜んでいた。
ところでビッセル伯爵には十歳になるジーンという名前の娘がいて、少し内気な性格をしているようだった。はにかみやで素直なジーンはとても可愛らしい。
快活なクラリッサには面倒見の良い一面があったので、すぐにジーンと仲良くなり、年の近いふたりはずっと一緒に過ごしていた。
そうしてとうとう夜会が開かれる日がやって来た。
* * *
――当日、身支度を終えたオリヴィアは、
「可愛すぎる君を誰にも見せたくない」
とリアムに言われ、すっぽりと抱きしめられてしまった。そこへ、
「はい、はい、離れて、離れて」
と平坦な声で注意しながらクラリッサが割って入る。
場所が変わっても、セントクレア公爵家にいた時とあまり変わらない光景が繰り広げられていた。
オリヴィアは礼服姿のリアムがとても素敵でドキドキしていたので、彼がふざけてくれて『助かった』と思っていた。
……もっともリアムからすると、ふざけたつもりはなかったようだけれど。
* * *
オリヴィアはかなり緊張していて、夜会の初めのほうは、実は記憶があまり残っていない。
リアムにスマートにエスコートされ、色々な人と挨拶を交わした。
会う人、会う人、大抵の人が親切で好意的な態度で接してくれた。――それは主催者であるビッセル伯爵と、セントクレア公爵家の嫡男であるリアムが、周囲から一目置かれているためだろう。
オリヴィアは十七歳の時、貴族社会から弾き出されるという強烈な経験をしている。もちろん一番悪かったのはオリヴィア自身であるが、あの時に味わった、周囲の手のひら返しの怖さは忘れることができない。初めは『ワイズ伯爵令嬢』と一目置いていた彼らが、最後はゴミクズでも見るような目をオリヴィアに向け、容赦なく罵ってきた。
だから一見優しげであっても、本心はまったく違う場合があるというのは、オリヴィアもよく理解している。
……けれど、だからといって問題はないのだわ。
こうしてふたたび社交界にカムバックしたわけだが、オリヴィアは過去のトラウマを冷静に受け止めていた。怖がるでもなく、かといって都合良く忘れるでもなく、自然体でいられる自分に気づいた。
別に変に意固地になって、『どうせこの人たちは、腹の底では何を考えているか分からない』と敵意を剥き出しにする必要もない。
逆に、『バンクス帝国と違って、イーデンス帝国の貴族たちは信用できるわ!』と心の底からすべてを無条件に受け入れる必要もない。
結局、すべては自分次第なのかもしれない。
周囲がオリヴィアのことをどう思うかは関係ないのだ。すべきことに対して、ただ真摯に取り組めばいい。
それで誰かに評価されようとも思わないし、逆に、貶してくる人がいたとしても、それすらもたいした問題ではない。
オリヴィアは十年間、パールバーグ国で庶民として働いてきたから、たぶん以前とは考え方が変わったのだ。仕事をして、日々の生活をしているうちに、自分というものを見つめ直した。
……大丈夫。大丈夫よ。右も左も分からない港町で、十年、生きてこられたのだから。今日という日だって、乗り越えられる。
隣を見れば、リアムもいる。もしもオリヴィアがいっぱいいっぱいになっても、彼が見守ってくれているから大丈夫。
初めは夜会の華やかな空気に圧倒され、少し上がっていたオリヴィアであるが、段々と落ち着きを取り戻してきた。
マーガレットたちのことも気がかりではあったが、バンクス帝国から出張してきているはずの彼らはまだ会場に現れていない。マーガレットが以前に寄越した手紙からは、この夜会に相当賭けているのが伝わってきたのだが、彼らが宿泊している宿はここからかなり遠いらしいので、移動に時間がかかっているのかもしれない。
「……おっと、ウェザビー婦人と目が合った」
傍らにいたリアムがそう呟きを漏らした。
彼の視線を追うと、年齢層高めのご婦人たちが、奥まった一角で固まっているのが見えた。――ウェザビー婦人というのは、輪の中心にいる八十代くらいの女性のことかもしれない。大変厳めしい雰囲気の、気品のある婦人だった。
彼がこちらを見おろす。
「ちょっと挨拶してくる」
「私も行ったほうがいい?」
「いや」リアムの表情は少し困っているようでもあった。「……ウェザビー婦人はなんて言うか……若い女性があまり好きではない」
「……えっと、そうなの?」
ウェザビー婦人と接するには、『気をつけなければならない百のルール』を聞いておく必要がありそうね……オリヴィアはそんなことを思った。
「あとで君も挨拶しておいたほうがいいが、ご機嫌伺いのため、先に僕がひとりで行ってくる。――そのあいだ君に付いていてもらうよう、ビッセル伯爵に頼んでみよう」
オリヴィアが『ビッセル伯爵にご面倒をおかけする必要はないわ』と言おうとすると、傍らにいたクラリッサが、
「大丈夫、私がオリヴィアの番犬役になるわ」
と口を挟んだ。
これを聞いたオリヴィアは複雑な表情になってしまった。……いえ、年長者の私が十一歳のあなたを護るべきなのよ。
リアムはくすりと笑みを漏らし、
「じゃあ頼むよ」
と言い置いてウェザビー婦人の元に向かった。
* * *
しばらくは出席者のドレスを眺めて楽しんでいたクラリッサが、ふとある一角を見つめて、動きを止めてしまった。
「どうしたの?」
オリヴィアが尋ねると、クラリッサが手を伸ばしてきて、こちらの腕に触れる。彼女の視線はどこか遠くに向いたままだった。
「……あれ、ジーンをいじめている女の子かも」
ジーンというのは、ビッセル伯爵の十歳になる娘さんだ。滞在しているあいだに、クラリッサはずいぶん彼女と仲良くなっていたようだけれど、何か相談されていたのだろうか。
オリヴィアの位置からはよく見えなかったので、クラリッサのほうに半歩寄ると、人混みの向こうに、ジーンと向かい合う勝気そうな少女の姿が視界に入った。
ジーンは大人しくて優しい子なので、性質の悪い相手につけ込まれてしまうと、なかなか負のループから抜けられなくなるかもしれない。
どういう訳か天使のように清らかな子には、悪魔がヤキモチを焼いて、しつこく付き纏って意地悪するらしいから。
――クラリッサがチラチラとこちらを見上げてくる。
ジーンの元に駆けつけたいけれど、リアムに『番犬役になる』と約束をしたから、オリヴィアの元を離れるのを躊躇っているのだ。
オリヴィアは優しい瞳でクラリッサを見おろし、彼女の華奢な背中をそっと押した。
「ほら、行ってあげて」
「でも……」
「あなた、ジーンさんのことが大好きでしょう?」
「うん」
「あちらも同じ気持ちだと思うわ。友達が困っているのだから、行ってあげて。……あのね、たとえあなたがあのいじめっ子を撃退しなかったとしても、ジーンさんは今あなたが駆けつけてくれるだけで、とっても嬉しく感じるはずよ」
「……そうかもね」
クラリッサは小さな声で呟きを漏らしたあと、オリヴィアを見上げて笑みを浮かべた。迷いが消えて、いつもの快活な彼女の表情に戻っている。そうして小生意気な仕草でウインクしてみせた。
「でも私、やっぱりいじめっ子は退治する」
クラリッサは猫のようにしなやかに動き、人混みを縫って狩りに出かけた。
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