第39話 私ね、十七歳の時に婚約していたことがあるの


 オリヴィアが二階の階段上に現れた。


 一階エントランスからそれを見上げたリアムは、ちょっとした驚きを覚えて目を瞠った。


 ――艶めいた赤毛をふたつに分けて編み込みにしているオリヴィア。彼女が身に纏っているのはヒラヒラのドレス――地は水色で、薄い白のレース飾りが涼しげだ。裾はふわりと甘く広がり、たくさんのフリルが鮮やかに翻る。


 いつも朗らかな彼女が、どうやら今は少し怒っているようだった。


 ……まぁそれはそうか。だってあのファッションを指定したのはリアムで、嫌がる彼女に『罰ゲームだよ』と無理を言ったのだから。


 先日ふたりは賭けをした――庭園迷路で競争した際、先に中心部に着いた者が、遅かったほうになんでもひとつ命令できるという賭けを。


 リアムが勝ち、オリヴィアが負けた。だからリアムはなんでもひとつ彼女に命令できる。


 それで外出することになったこの日、権利を行使することにした。――彼女にあの軽歌劇『ミリー』の格好をするよう求めたのだ。


 これは彼女をからかうためというよりも、心の底から求めてやまないものから気を逸らしたいという、複雑な気持ちの表れなのかもしれなかった。


 ――悪ふざけをしているうちは、まだ深みに嵌らずに済む。深刻な空気にしなければ、気持ちを抑えておけるから、と。


 だけどもしかすると、それすらももう難しいのかもしれない。


 胸が切ないよ。


 ――彼女が階段を下りてくる。近づいてくる。


 とても幸せな時間のはずなのに、とても寂しい。物理的な距離が近づいても、本当の意味で踏み込むことはできないから。


 ……お願いだから、そんなふうにずっと僕に対して怒っていてほしい。僕が近づきすぎないようにしてほしい。リアムの菫色の瞳が、夢見るように和らいだ。


 目の前まで歩み寄ってきた彼女がこちらを見上げる。


「リアムさん、真面目ぶった顔をしても無駄ですよ。口の端がほんの少しだけ上がっています」


 ……僕は笑っていた? そう――自覚がなかったな。人はこんな気分の時も、笑みを浮かべてしまうものなのか。


「楽しくて」


 ……切なくて。


「そんな優しい目をしてもだめです。こんなひどい罰ゲームを言いつけて、私は許しませんから」


 そうだね。どうかそうしてくれ。


 リアムは意識して悪戯な笑みを浮かべ、


「リッツ・ギャラリーでアイスクリームをご馳走すれば、きっと君は寛大に許してくれる――さぁ、いこうか」


 と彼女を促した。




   * * *




 時間をかけて美術館の中を巡った。


 ――普段リアムとは話していて感性がとても合うと感じていた――可笑しく感じる箇所だとか、間の取り方とか、話が脱線していく瞬間を楽しむ空気の読み合いとか。


 けれどリッツ・ギャラリーに来てみたら、絵に対する感性がわりと真逆だということに気づかされて、それがまた面白かった。


 オリヴィアが『素敵』と思った絵を、彼は首を傾げて眺めた。


 反対に彼が『気になる』と言った絵を、オリヴィアは無の表情で眺めることになった。


 彼は目敏くそれに気づいたらしく、腰に手を当て、真横にいるオリヴィアの顔を覗き込んできた。


「……冷たい」


 ポツリと呟きながら。


「え?」


 オリヴィアは少し上半身を引きながら、口元に笑みを浮かべた。誤魔化すためというより、彼が拗ねているようなので、それがなんだか面白くて。


 彼がすっと目を細めて言う。


「君はこう思っているだろう――何これ、たとえオレンジ一個分の代金だとしても、私は絶対に買わないわ――そう顔に書いてある」


「リアムさんは私の心が読めるのですか?」


「たぶんね」


「ぶっぶー、外れです。――これは世紀の名画だわ! ちゃんとそう思っています」


「嘘だ」


「嘘じゃないです。……ただ、私にも描けそうな名画だわ、とは思ったけれど」


「私にも描けそうとは、大きく出たな」彼の口角が上がる。「君には絶対に描けないと思う」


「私は天才画家ですよ」オリヴィアは澄まし顔で続ける。「だってものすごく飛びたがっているツグミを描くことができるんですから」


「そうだった」


 ふたりは笑みを交わし合った。


 でも……とオリヴィアは思う。今私が描いたら、飛び立つのを怖がっているツグミの絵しか描けないかもしれない。


 ――たくさんの絵を眺めて歩くのは楽しかった。額縁もそれぞれ違っていて、そういう細部も見ていて楽しめる。


 移動していくと新しい絵が現れるので、旅をしているような心地にもなった。


 考えてみれば画家たちは、これを仕上げるために気が遠くなるような長い時間を費やしているのだ。――一つひとつの絵に彼らの魂が込められている。見るほうは一瞬でも、作っているほうは違う。


 一周してふたたびエントランスに戻ってきた。休憩しながらゆっくり回ったので、もう午後三時を過ぎている。まだ夕方という時間ではないので、日差しは明るく暖かかった。


 建物を出て少し歩き、見晴らしの良い広場に出た。噴水を眺められる場所で、少し休むことにする。ベンチに並んで腰かけると、彼が尋ねてきた。


「美術館にはよく来るの?」


 オリヴィアは首を横に振ってみせた。


「いいえ、全然。――そういえば、これが人生で二度目の美術館だわ」


「本当に?」リアムは『信じられない』という顔でこちらを見る。「だけど君はここで、楽しそうに絵を眺めていたのに」


 絵画鑑賞が好きそうなのに、なぜ? 彼はそう思ったらしい。


「一度目の思い出が最悪で」


「じゃあなぜ今回ここに?」


「妹がここに来たがっていたから。今度彼女を案内できるように、先に見ておこうと思って」


「妹さんがいるんだね」


 彼にそう言われ、オリヴィアは奇妙な引っかかりを覚えた。


 ――セントクレア公爵家にオリヴィアがやって来たあの日――リアム、そして執事の両方から『本日到着予定のワイズ伯爵令嬢はどちらに?』というようなことを、一度だけでなく何度か確認されたように記憶している。ワイズ伯爵令嬢――つまり妹のクラリッサについて、彼らは存在を把握していたはずでは?


 オリヴィアが考えを巡らせていると、彼が続けた。


「それにしても、一度目の最悪な思い出というのが気になるな」


 そう言われて、意識がそちらに引っ張られる。クラリッサについての疑問はそのまま有耶無耶になり、オリヴィアは微かに眉根を寄せながら、口元に笑みを浮かべていた。


「美術館ですごく気まずい思いをしたの。ねぇほら――魚介類にあたったせいで、もうそれが食べられなくなったっていう人に会ったことない? 理由を訊いたらね――あたった時の気持ち悪さを体が覚えていて、同じものを見るとその時の体調を思い出すから、どうしても食べられないんですって。私の場合もそれと似ていて、過去の気まずさが蘇るから、これまで長いあいだ美術館という場所が苦手だった」


「なるほどね」リアムがくすりと笑みを漏らす。「一体誰が君をそんな状態にしたの?」


「それは当時の婚約者が――」


 オリヴィアは素直に答えかけ、ハッとして口を閉ざした。……リアムと話していて嫌な気持ちになったことがなかったから、気が緩みすぎていたのかもしれない。美術館での思い出について問われ、素直に答えかけてしまった。


 これは『言うべきではない』ということでもないが、反対に、『言っておくべき』ということでもない。いえ、でも――オリヴィアは考えを巡らせる。


 現状リアムとオリヴィアは婚約関係にあるわけで、大昔に壊れた縁談をあえて隠すのはフェアではないのかもしれない。


 リアムのほうはオリヴィアとの婚約を解消したがっているけれど、それならそれでこちらの過去を知れば、彼はきっと楽になれる。――オリヴィアが男性恐怖症だと知ったなら、『それならこの結婚話がなくなれば、君も助かるだろう』と考えられるはず。この先で婚約解消するのが避けられないことならば、せめて彼の心の負担が軽くなれば……。


 オリヴィアは彼の菫色の瞳を見つめた。


「――私ね、十七歳の時に婚約していたことがあるの」


 ふわりと風が吹き抜けていった。


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