第38話 二通の手紙
彼がこの婚約を白紙に戻したがっていると知った、庭園迷路でのあのひと時。
それ以降もふたりの空気は表面上、これまでと変わらなかった。
オリヴィアは丁寧に仕事をこなし、時折彼と楽しく雑談をして、和やかな時間を過ごした。――大丈夫、前と同じにやれているわ。
リアムはこれまでどおり彼女と過ごす時間を楽しんだ。――彼女を困らせないよう、上手くやらなくては。
外から見たふたりは何も変わっていない。穏やかで、楽しげな空気。
けれど実際のところふたりとも、以前とは決定的に何かが変わったのを自覚していた。
――もうなかったことにはできない――
互いによく分かっていたのだ。これまでは自身が求めていることについて、見て見ぬふりをして流してきたけれど、もうその段階にはないのだと。
――オリヴィアは彼を失いたくなかった。彼への愛に気づいてしまったからこそ、気持ちに蓋をしようと強く心に誓った。――多くは望まない。自分のパールバーグ語の知識が彼の役に立つのなら、誠心誠意彼に尽くそう。見返りは何もいらない。ただ彼のそばにいられれば。
――リアムは『クロエ・ワイズ』との婚約が白紙になっていない段階で、オリヴィアに対して好意を示すことに禁忌めいたものを感じていた。――顔も知らぬ、約束の日に現れなかった不誠実な『クロエ・ワイズ』――彼女に義理立てする筋合いもないのだが、やはり婚約者がいる身でオリヴィアとの関係をこれ以上進めるのは、どちらに対しても失礼な気がする。
――数日のあいだふたりは仕事に打ち込み、次の休みの日になった。
今日はリッツ・ギャラリーに行く予定だ。
オリヴィアはイーデンス帝国に来たら、観光地巡りをするのが夢だった。それで彼女が最初に選んだ場所が、リッツ・ギャラリーだった。
ここは妹のクラリッサが『イーデンスに行ったら、絶対ここに一番に行くわ!』と宣言していた場所だ。あの子は美術館が大好きなのだ。
クラリッサの到着はまだ先のことになるだろうけれど、オリヴィアがあらかじめ下見をしておけば、彼女がやってきた時にガイド役を務められる。
――リアムはもちろんオリヴィアに付き合って、一緒に出かけることになっている。オリヴィアをひとりで観光地に送り出すなんて、到底考えられない。彼女はあんなに可憐であんなに素直な性格をしているのだから、あっという間に悪い人間に攫われてしまうだろう……リアムは半ば本気でそれを心配しているのだった。
支度を終えたリアムはエントランスで彼女を待っていた。
そこへ執事のハーバートが近づいてくる。彼は銀のトレイを右手で支え、そこに手紙を載せて運んできたようだ。
リアムが問うように見つめると、ハーバートが低音の渋い声で告げた。
「手紙が二通届いております。一通は『オリヴィア』様宛て、もう一通は『クロエ・ワイズ』様宛てです」
それを聞いたリアムの眉根が寄る。彼はトレイのほうに手を伸ばし、手紙を確認した。先に手に取ったほうは『オリヴィア』宛だった。
差出人は誰だ? ――所定の位置に書かれている署名は『C・ワイズ』となっている――ああ、くそ、『クロエ・ワイズ』か。
外出前の弾んでいた気持ちが一気に沈んでいく。オリヴィアと共に過ごす時、リアムが一番聞きたくない名前が『クロエ・ワイズ』だった。
「クロエ・ワイズが一体なんの用だろう」
執事のハーバートはポーカーフェイスを保っていたが、その後口を開く前に咳払いをしたので、彼も少し動揺しているのかもしれなかった。
「ただの定期連絡か――あるいはオリヴィア様に対するなんらかの指示が書かれているのか」
「――至急ワイズ伯爵家に戻れ、とか?」
「分かりません。……この手紙ですが、どうなさいますか?」
問われたリアムはほとんど頭を使わずに、『捨ててしまえ』と言いかけた。……しかしそういう訳にもいかない。
「あとでオリヴィアに渡す。だけど出かける前は勘弁してくれ」
「それがよろしいかと。せっかくなので外出を楽しまれてからお渡しになったほうが」
「外出を楽しんだあと――晩餐を楽しんだあと――その後は眠る前に渡すと気になるから、翌日にしよう――そんなふうにどんどん先延ばしにしてしまいそうだ」
「では、帰りの馬車内でお渡しになられては? その場で開けてもらえば、どんな内容か訊きやすいでしょう」
「……そうだな」
相槌を打ったリアムがどこか上の空になっているように見えたので、ハーバートは気づかわしげにあるじを見遣った。
使用人と雇い主という関係性であっても、長くセントクレア公爵家に仕えてきた五十代のハーバートは、リアムのことを赤ん坊の頃から知っている。だから彼に対しては息子のような孫のような愛情を感じているのだった。
「リアム様――たとえC・ワイズがオリヴィア様に『至急戻れ』と指示したのだとしても、それを止める手立てはあると思いますよ」
「だといいが。……それを止められるものならば、僕は黒魔術であっても手を出してしまいそうだよ」
リアムはうんざりした様子でため息を漏らした。
そうしてもう一通を確認する。こちらは『クロエ・ワイズ』宛だ。
「差出人は……マーガレット・コックス? マーガレット……どこかで聞いたぞ」
考えを巡らせていたリアムがハッとした様子でハーバートを見つめた。
「確かクロエ・ワイズがいじめていた女性がマーガレットという名前じゃなかったか? マーガレット・コックス――姓のほうは、そう――クロエの当時の婚約者がコックスという姓だったはず。邪魔者のクロエ・ワイズが排除されたあと、マーガレットは彼と結ばれた」
「そういえばクロエ・ワイズ様の調査書にそれらの記述がありましたね」ハーバートが頷いてみせた。「当時十七歳だったクロエ・ワイズ様は周囲から『悪役令嬢』と呼ばれていて、恋敵であるマーガレット嬢に悪質な嫌がらせを繰り返していた。それを知った当時の婚約者は、マーガレット嬢のほうをかばったとか」
「どうなっているんだ。いじめ被害者のマーガレットがクロエ・ワイズになんの用だ? しかも祖国バンクスでやり取りするのではなく、わざわざイーデンス帝国の当家に手紙を送りつけてくるとは」
「今回の結婚話を聞きつけたのでしょうか」
「聞きつけたとして、だからなんだ?」リアムには理解できない。「もう関係ないだろう」
「マーガレット嬢からすると、まだ終わっていない話なのかも。――自分をいじめた相手が大貴族セントクレア公爵家の花嫁になると聞いて、黙っていられなくなったとか?」
手紙の内容で可能性が一番高いのは、マーガレットからクロエ宛ての脅迫文だろう。――『セントクレア公爵家にあなたの過去の悪事をバラします。それが嫌なら身を引きなさい。私がすべてを暴露したあとで、先方から婚約破棄されるより、あなた自身が決断したほうが傷は浅く済む』というような。
マーガレットはセントクレア公爵家に告げ口する前に、まずクロエ本人に脅しをかけようとしているのかも。
――しかしどのみち、だ。
「知ったこっちゃない」リアムが不快げに吐き捨てる。「正直僕はクロエ・ワイズに対してちょっとした嫌悪感を抱いているが、それでもこのミセス・マーガレット・コックスが今更何か言ってくるなら、こちらは徹底抗戦するしかない。――マーガレットは十年も時間があったのだから、そのあいだにクロエへの恨みを晴らしておくべきだった。ずっと格上のセントクレア公爵家を巻き込むことなくね」
この手紙が怨念めいたものなのかは定かではないが、どのみち常識知らずなやり方なのは確かだ。貴族社会というものは、義憤に駆られたからといって、好き勝手に行動してよい世界ではない。ほかの階級ならもっと自由だとしても、この世界は違う。
もしもマーガレットがこちらに進言したいことがあるならば、あいだに入ってくれる適切な仲介者を探して、もっと礼を尽くしたやり方を探すべきだった。こんなふうにいきなり当家に手紙を送りつける前に。
――このケースでは『手紙はクロエ・ワイズに宛てたものなのだから、別にいいでしょう』の言い訳は通用しない。なぜなら現実問題として、これはセントクレア公爵家に届いているのだから。
当家預かりのクロエ・ワイズ(実際にはまだ到着していないのだが)に喧嘩を売る気なら、それはセントクレア公爵家に唾を吐くのと同じだ。
リアムは二通の手紙をフロックコートの内ポケットに仕舞い込んだ。
――念力か何かでこの不快な手紙二通を粉微塵に吹き飛ばせないものかね、などと考えながら。
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