第37話 どうかそばにいさせて
オリヴィアはひとり迷路を彷徨っていた。
――結局、リアムが持ちかけてきた賭けに乗ることにした。先に迷路の中心に着いたほうが、遅く着いた人に何かひとつ命令できる。
『さっきの話で、あなたが迷路の常連じゃなかったことは分かったけれど、それでも過去に数度挑戦したことはあるのだから、やっぱりあなたが有利よ』
出発前にオリヴィアがそう言うと、彼は肩を竦めてこう返してきた。
『ハンデをあげる。君がスタートしてから、百数え終わるまで出発しない――どう?』
『OK、乗ったわ』
オリヴィアは方向感覚にはそこそこ自信があったので、この勝負は勝てると思った。彼は遅れて出発するし、しかも手にはランチバスケットを提げている。
――先日洋服店でタンバリンを叩く私を笑ったこと、後悔させてあげるわ――彼には軽歌劇の『ミリー』を、タンバリンを叩きながら全力で歌い上げてもらう。ひとり二役だ。
オリヴィアはものすごくやる気だった。だから本気を出した。
緑の中を小走りに駆ける。
不思議なことに、この迷路には妖精が本当に棲んでいそうな気がしてきた。小さな妖精が生垣の中から飛び出してきて、ステッキを振るい、オリヴィアに呪いをかけてくる。
『――大切なことを忘れなさい――』
もしも忘れてしまうなら、大切なことではなく、つらい思い出がいい。――九歳の頃のあの記憶を、どうか忘れさせて。
だけどあの過去がなければ、オリヴィアは今ここにいなかったのも確かだ。子供の時のトラウマさえなければ、十七歳で壊れたあの関係――当時の婚約者ディラン・コックスとの仲も良好だったかも。普通に話が進んでいれば、オリヴィアは彼と結婚していたはずなのだ。
不思議だった。もしもここに妖精がいて、『あなたが手に入れ損ねたものをあげましょう。時間を戻してあげる』と言われても、オリヴィアはそれにちっとも心惹かれない。
紆余曲折あって、リアムに出会えてよかった。
過去があって、今がある。
私は今ここにいる。
ふと気づけば、生垣が曲線状になっているところに辿り着いていた。そのままそれに沿って進むと、生垣が途切れ――
「……勝ったわ!」
オリヴィアは瞳を輝かせた。体感だが、時間はそんなにロスしていない。かなり効率よく進んで、ここへ辿り着けたと思う。
弾むように走り、中に駆け込む。
ぽっかりと開けた空間が広がっていた。芝生が綺麗に敷き詰められ、周囲を高い生垣が円状に取り囲んでいる。
そこにリアムが佇んでいた。彼は入ってきたオリヴィアを見つめ、微笑みを浮かべた。
「――僕の勝ちだ、オリヴィア」
足を止めたオリヴィアは深呼吸して、『いつだってあなたの勝ちだわ』と考えていた。
* * *
芝生の上にブランケットを敷き、ふたり並んで腰を下ろす。
バスケットの中にはサンドイッチが詰められていた。色々な具が入っていて、見た目も綺麗だ。ほかにデザートとしてマスカットと苺もある。すごく美味しそう。
「こういうのもたまにはいいわ」
オリヴィアが笑顔を彼に向けると、リアムも笑みを返してくれる。
「そうだね。執務室でお茶を飲むのも、楽しいけれど」
「そうね」
「ここならゲルダからお説教される心配がない」
「ゲルダさんが色々言うのは、あなたが仕事中毒だったせいでしょう?」
「おや」リアムが眉根を寄せてこちらを眺める。「もしかしてゲルダのお説教癖が伝染した?」
「だってあなたが体を壊したら、困るわ」
私は夫になる人を失いたくないですから……そう言いかけて、ハッと我に返る。
入籍は二月後の予定だ。ふたりの行く先には『結婚』というものがあって、彼だってそれは承知している。
だけどオリヴィアはこれまでどういう訳か、結婚に関することを口にできずにいた。ほかのことなら、かなり際どいことでもジョークにしてしまえるのに、結婚に関することだけはそれができなかった。
そのワードを聞いて、彼がもしも顔を曇らせてしまったらと思うと、怖くて仕方ない。冗談でも口にできない。
逆に言えば、それだけ彼と結婚することがオリヴィアの中で特別になっているのかもしれなかった。
このお屋敷に着くまでは『何かラッキーが起こって、この契約が白紙に戻らないかしら』と考えていた。兄のマシューが亡くなったと知り、その弟さんがどんな人か分からないから、一緒に暮らすのは気が重いな、って。
だけどリアムに会ってしまったら、『この話が壊れなければいいのに』と思うようになった。たとえ五年でもいい――できるだけ長く続けばいいのにと。そのあいだは彼とお喋りしたり、笑い合ったりして、同じ時間を過ごせる。
――迷路の中でのピクニックは楽しかった。
食事の合間に彼が、『パールバーグのランチって、どんなの?』と尋ねてきたので、オリヴィアは三択のクイズ形式にしてみた。彼はこちらの狙い通りに外し、オリヴィアが正解を言うと『絶対に嘘だ』と信じようとしない。
そうこうするうちにバスケットのサンドイッチがなくなり、ティーポットから注いだカップの紅茶もなくなり……。
「そろそろ戻ろうか」
彼がそう言って、オリヴィアは笑みを浮かべて頷きながらも、なんだか寂しく感じていた。
……楽しい時間はあっという間に過ぎるわ。
このあとも執務室に戻って彼と一緒に過ごすというのに、それでもなんだか寂しい。
片づけようとバスケットに手を伸ばし、同じように手を伸ばしたリアムと指先が触れた。
触れた指先から、彼の手首へ……そして胸のあたりへ、首筋へと、そっと視線を上げていく。
彼も同じようにして、ふたりの視線がついに出会った。
緑深い香り。鳥がどこかで鳴いている。陽光が緑を柔らかに反射していた。
――綺麗な紫――……彼の瞳は物柔らかで、深みがあった。
身じろぎしたのはどちらが先だろう。互いの顔が引き寄せられるように近づく。
何も考えられなかった。だって今ここには、ふたりしかいない。
互いの鼻先が触れそうなくらいに近くなって、そして――……
何か物音がした。それは鳥が飛び立った時の枝鳴りだったのかもしれないし、風が起こしたものだったかもしれない。とても小さな音だった。
彼が我に返った様子でオリヴィアから離れた。指先同士が触れていたのに、彼の手がそっと離れていく。
けれどリアムの瞳はまだオリヴィアを見つめていた。穏やかで、どこか切ない光。
「ワイズ伯爵家の弁護士を今、探しているんだ」
彼がポツリと告げる。
……え? オリヴィアは瞬きして、問うように彼を見つめ返した。
ホリーを? なぜ?
「当家の弁護士であるローマス氏から、偽装結婚の契約書に不備が見つかったと報告を受けた。内容確認のため、あちらの弁護士と話をしなければ」
オリヴィアは息を呑んだ。では……この結婚は……?
彼が続ける。少し苦しそうに。
「この状態でこんなことを言うのは、不誠実だろうか……でも……君には残ってほしい。ずっと。僕のそばに」
彼の言葉が途切れる。
オリヴィアの瞳が潤んだ。
彼は伴侶としてはオリヴィアを必要としていない。オリヴィアと同じ時間を過ごしながらも、契約書に不備がないかどうか弁護士に確認させていたのだ。婚約を白紙に戻したいから。
けれど仕事のパートナーとしてはオリヴィアを求めてくれている。ふたりのあいだには絆のようなものが芽生え始めている――それはオリヴィアの気のせいではないはずだ。
彼はオリヴィアを愛せないけれど、大切にはしてくれる。
だから今ここで、『残ってほしい』と伝えてくれた。
「あなたの望むとおりに」
オリヴィアは静かに答えた。
――ああ、私は馬鹿だわ! オリヴィアはたった今重要なことに気づいた。
私――彼を愛している。深く深く、愛している。
彼のそばにいたい。妻にはなれなくても。
どうかそばにいさせて。あなたを困らせないから。
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