第36話 庭園迷路
ふたりは今、庭園迷路の入口に並んで立っている。
生け垣は背丈よりもずっと高く、綺麗に整えられていた。緑が色濃く、壮観だった。
敷地の北東にこれがあるのは知っていたのだが、オリヴィアはここに来るのは初めてだった。
リアムは籐で編まれたランチバスケットを手に提げている。
「重くないですか?」
ふたりぶんのランチと茶器が入っているので、かなりの重いのではないかしら。オリヴィアが隣に立つ彼を見上げると、リアムが悪戯な笑みを浮かべた。
「まだ全然余裕があるよ。――追加で君のことも肩に乗せられる。たぶん、頑張れば」
オリヴィアは笑みを零した。
「あなたはどうしても私を肩に乗せたいのね」
「夢はなかなか叶わないな」
「残念ね。じゃあそうね……あなたが可哀想だから、そのバスケットは私が持ってあげましょうか」
オリヴィアがニコニコしながらそう提案すると、彼が首を横に振る。
「君はスプーンより重いものは持ったことがないだろう?」
「いいえ、そのバスケットくらいなら余裕で持てるわ」
……持てるかしら?
「重すぎて、君の腕が五センチほど伸びてしまうかも」
「そんなことにはならない」
「どうかなぁ。日頃から鍛えていないはず」
「あなたより私のほうが八歳年上よ。ということは、私のほうが八年多く鍛えているってことですから」
オリヴィアがそう言うと、リアムが軽く眉根を寄せる。相変わらず口元には笑みが浮かんでいたけれど。
「オリヴィア、年齢のことは言っちゃいけない決まりだぞ」
「そんな決まり、ありました?」
「あるよ。僕に対して自分は八歳上だと勝ち誇るなんて、君は悪女だ。僕が傷つくと分かっていて、そんな意地悪を言うなんて」
あまりに馬鹿らしいやり取りに、ふたり顔を見合わせて噴き出す。
「――中央に開けた空間がある。そこでランチにしよう」
「いいわ」
「どちらが先に着くか、競争しないか? ――せっかくだから、賭けをしよう。負けたほうは、勝ったほうの言うことをなんでもひとつ聞かなければならない」
彼からそう持ちかけられ、オリヴィアはパチリと瞬きした。
「それって圧倒的にあなたが有利よね? だって経路を知っているでしょう?」
「そんなことはない。子供の頃、何度か来ただけだから」
「え? それだけ?」
「そうだよ」
「もったいない! どうして?」
「いや、自分の家にあるとそんなものだと思うが」
オリヴィアは眉根を寄せる。
「いえいえ、そんなことない。子供って迷路が好きなはずよ」
「……そう言われるとそうかな? でも僕は……」
リアムが言葉を途切れさせ、ぼんやりと考え込む。
「リアムさん?」
彼が夢から醒めたように身じろぎし、こちらを見おろした。
「原因は、兄だ」
「マシューさん?」
「あの時僕は六つか七つで――父が全然家に帰ってこないものだから、寂しくて少しぐずっていた。兄は当時、十代後半か? ……今思うと、その年齢のわりにすごくしっかりしていたな。いつも飄々としていて、真顔で冗談を言ったりするから、当時の僕は彼のすごさがよく分かっていなかった。彼はなんていうか……柳のようにしなやかなのに、芯は強い人だった」
リアムの瞳の色が物柔らかになる。兄マシューのことを思い出しているのだろう。
「兄にね――『父さまは僕が嫌いだから家に帰ってこないの?』と尋ねると、彼は僕の手を引いてこの迷路を進みながら、こう答えたんだ――『それはね、リアム、呪いのせいだよ』って」
「呪い、ですか?」
ちょっといい話が繰り広げられるのかと思って聞いていたら、まさかの『呪い』。
オリヴィアが目を瞠ると、彼が可笑しそうにこちらを流し見る。
「彼が言うにはね――この迷路には妖精が住み着いていて、人間に呪いをかけてくるんだって。呪いの力は強力で、長い時間ここにいると、大切なものが頭から抜け落ちてしまう。父は子供の頃この迷路が大好きで、何度も来たらしい。それで物忘れがひどくなってしまった。一、二度、迷路を通っただけなら呪いの影響は受けないが、父の場合はもう手遅れだ。治らない、って言うんだ」
「信じました?」
「信じた。まだ子供だったし、マシューもひどいんだ。彼は『こうなったのは痛ましい事故だ』みたいに悲しげに語っていたよ。『父がフラフラほっつき歩いているのは、本人のせいじゃない、呪いのせい。だから父のことを、無責任ロクデナシ大間抜けクズ男だなんて思ったらいけないよ。あの人も被害者なのだから』って。……マシューはすごい役者だと思う。あんな深刻な言い方されたら、大抵の子供は信じる」
「面白い人」
……ていうか『無責任ロクデナシ大間抜けクズ男』って、当時のお兄さんがそのまま父親に対して思っていたことではないのかしら? 悪口がものすごすぎて、逆にちょっと笑ってしまうのですが。
「さも真実かのように嘘をついておいて、その後、種明かしをしないんだからね。子供の頃の思い込みって強烈で、なかなか解けなかったな。僕は呪いを受けるのが嫌で、ここへはまったく足が向かなくなった」
「いいお兄さんですね」
オリヴィアがそう言うと、リアムが呆れたようにこちらを眺めおろした。
「話、聞いてた? 彼は変わっていて、人間的には魅力があったけれど、子供相手にブラックジョークがすぎるよ」
「お兄さんはきっと、あなたがお父さまを恨まないように、そう言ったんじゃないですか? 家に帰ってこないことを妖精のせいにして、あなたがそれ以上悲しまないように」
美しいアメジストのような瞳が揺れた。リアムは少し悲しそうだった。
「……そうかもしれないね。確かにそれ以降、僕は気持ちの整理のつけ方を学んだ気がする。たぶん……頭のどこかでは、妖精の呪いなんて嘘だって分かっていた。でも父に対して怒りを感じた時に、この迷路で聞いた話がまず頭に浮かぶようになったんだ。そうすると不思議なことに、すうっと熱が冷めて。……でも兄はどうだったのだろう? 彼は誰にもそれを言ってもらえなかった。妖精の呪いの作り話は、彼自身が子供の頃に、誰かに言ってもらいたかった内容なのかも」
オリヴィアはそっと手を伸ばし、リアムの手を握った。ランチバスケットを提げていないほうの手だったので、彼もこちらの手を握り返した。
「あなたにはお兄様がいた。そしてお兄様にもあなたがいた。――彼はあなたの存在に慰められていたと思う」
リアムは瞳を伏せたまま、しばらくのあいだじっと動かずに佇んでいた。オリヴィアと繋いだ手はそのままに。
少し前と違うのは、彼の口元に温かな笑みが浮かんでいたことだろうか。
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