第16話 眠る時に目を閉じない


 夕刻になり、リアムが部屋を訪ねて来た。


 昼間少しお喋りをしたあと、彼は仕事があるらしく執務室に戻っていったので、オリヴィアは自室でひとりのんびりと過ごした。


 長旅で疲れが溜まっていたのか、ソファに腰かけてクッションを抱え込んだところまでは覚えているのだが、その後の記憶がぽっかりと抜け落ちている。……ということはどうやらソファに腰かけてすぐ、その体勢のまま眠ってしまったらしい。


 ハッとして目を開け、いつの間にか窓の外が暗くなっていることに驚く。それで『スーツケースの中身でも出しておこうかしら』と考え、立ち上がったところで、ノックの音が響いたのだった。


「――晩餐の時間だよ」


 扉を開けたオリヴィアは、対面したリアムから穏やかな声をかけられ、なんだか胸がじんわりと温まるような、それでいて落ち着きがなくなるような、奇妙な状態に陥っていた。


 昼間結構話したのに(ちなみに若い男性と一対一であんなに気安く会話をするのは、オリヴィアにとってはものすごく珍しいことである)、数時間離れたことで感覚がリセットされたのか、少しドキドキしてしまう。


 改めて向かい合ったリアムはすらりと背が高く、とても華やかだった。彼の顔立ちは女性的なわけでもなく、反対に野性味がすごいわけでもない。それなのにひとつに結んだ長髪がこれだけ似合うというのは、すごい才能だと思った。


 彼の美しさには少し緊張してしまうけれど、瞳を見つめるとその色があまりにも優しいから、心がほどける。


 オリヴィアは初め、自分がリアムのことを警戒しないで済んでいるのは、大好きだった画家さんに似ているせいなのかと思っていた。――けれどそうではないのかもしれない。リアムはリアムだし、画家さんは画家さんだ。今目の前にいるリアムの話し方や間の取り方が、オリヴィアはとても好きだと思った。


 ――五年――


 これから五年間、夫婦として彼と過ごす。それを長いととるか、短いととるかは、考え方次第だろう。


 だけど先のことは、あまり考えたくない。


 どういう訳かオリヴィアは、この偽装結婚が終了する時のことを、想像したくないのだった。


「……まだ眠い?」


 リアムからそう声をかけられ、オリヴィアはハッと我に返った。彼は片眉を上げるようにして、案ずるような、からかうような、絶妙な表情を浮かべている。


 オリヴィアはえ……となって、思わず胸元を手のひらで押さえた。動揺していた。


「ど、どうして眠いかと訊くんです?」


 部屋の扉は閉まっていた。だからオリヴィアが居眠りをしていたのを、リアムが知っているはずがない。


「使用人がお茶を運んでいって、君がソファで眠り込んでいるのを見たそうだ。そのお茶はもったいないから、結局こちらに回ってきた」


「え、ごめんなさい! 誰かが訪ねてきた記憶がないわ」


「寝ていたんだから、そりゃあそうだろう」


 顔が熱くなってきて、オリヴィアは手のひらで口元を押さえる。


「恥ずかしい……」


「誰かに寝顔を見られると、恥ずかしいものだよね」


「……よだれとか垂らしていたらどうしよう」


「君の部屋に入った侍女のゲルダは、眠る時に目を閉じない超人だから、皆、彼女の寝顔を怖がっている。――だから大丈夫。君がどんな寝顔であったとしても、ゲルダのインパクトには勝てない」


 色々とびっくりすぎて、ポカンと口を開けてリアムの顔を見上げてしまう。


 ……目を閉じずに眠る? そんなことって、可能なの?


 一瞬疑ってから、彼の瞳が『本当の話だよ』と告げていることに気づき、ジワジワと面白味が込み上げてきた。次第にオリヴィアの頬は緩み、ついには噴き出してしまう。


「本当に目を閉じないで寝られるんですか? 何それ、すごい」


「しかもちょっと白目なんだ。怖すぎるよ」


「見てみたいわ」


「いつかチャンスが巡ってくると思う。――それで、こちらが今話題に出たゲルダだ」


 リアムが半身になり、顔を斜め後ろに向ける。オリヴィアは扉口の部屋側にいたので、廊下のほうはドア枠で切り取られた一部しか見えていなかった。そして正面に長身のリアムが立っているので、彼のほかに人がいるなんて思ってもみなかったのだ。


 リアムが少し横によけ、その人が進み出てくる。


「……ゲルダと申します。よろしくお願いいたします」


 太く張りのある声。


 大柄で筋肉質な女性だった。五十代くらいだろうか。鷹のように目が鋭い。――なんというか『斧片手に世界の危険地帯を冒険していた過去があります』と言われたら信じてしまいそうなくらい、揺るぎない強さみたいなものが彼女にはあった。


 うーん……ちょっと『トリーチャー』さんに似ているかも。


「『トリーチャー』さんとどちらが強そう?」


 横手からリアムにそう尋ねられる。彼の口角はからかうように上がり、瞳がアメジストのように輝いていた。


 まさに『トリーチャー』のことを考えていたので、おかしくなったオリヴィアは少し前かがみになり、声を立てて笑ってしまった。


「たぶん『トリーチャー』さんのほうが強いです」


「あら」ゲルダが口をへの字に曲げる。「『トリーチャー』さんが何者か知りませんけれどね、このゲルダだって負けてはいませんよ」


「でもパールバーグの『トリーチャー』さんは無敵ですよ。全世界で女性の頂点に立つ人かもしれません。だって大きな男の人と腕相撲をしても、勝ってしまうんです」


「だけど『トリーチャー』さんとやらは、わたしのように目を開けたまま眠ることはできないでしょう?」


 ゲルダが愛想のない低い声で訴えてきた。もしかするとこの態度を見て怖いと感じる人もいるかもしれないが、オリヴィアはゲルダの物言いが面白くて仕方なかった。


 ついニコニコ笑って彼女を見返すと、ゲルダがお茶目に口角を上げてくれる。


 ……ほら、やっぱりいい人だわ。


 ゲルダが続けた。


「オリヴィア様は奥様ではないので、髪を整えたり服を着せたり肌の手入れをしたりといったお世話はできませんが、できる限りわたしが生活のご面倒を見ます。お部屋の掃除、お風呂の準備、洗濯、といったようなことです。食事の準備はまた別の者がやりますからね」


 オリヴィアはパチリと瞬きした。――はなから、髪を整えてもらったり服を着せてもらったり肌の手入れをしてもらおうとは思っていなかった。


「あの、お掃除とかの身の回りのことは、自分でできると思います」


「いけません」


 ゲルダの言葉には迷いがない。


「お屋敷を綺麗に保つには、プロのやり方があります。そこは踏み越えてはいけません」


「……なるほど」


 確かにおっしゃるとおりだった。オリヴィアが自己満足で掃除した気になっていても、ちゃんとできていなくて、設備を傷めてしまうかもしれない。家具の艶出しなど、専門の道具も要りそうだし。


「洗濯物の出し方や、浴室の使い方は、あとでゆっくり説明しますね。晩餐が終わってから、またお部屋に来ますから」


「ありがとうございます」


「――じゃあ食堂に行こうか」


 リアムが微笑む。


 彼は普段気さくだが、こういう時は完璧な貴公子になれるのだということを、オリヴィアは知ることになる。


 彼がスマートに腕を差し出してくれた。自然なのに気品のある仕草で。


 オリヴィアは赤面しつつ、少し俯きがちになり、そっと自分の手を添えたのだった。


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