第17話 完全に君のせい


 リアムと並んで階段を下りながら、オリヴィアはふとあることに気づいて、口を開いた。


「……そういえば私、ご家族にご挨拶をしていませんでした。セントクレア公爵には一番にご挨拶しなければいけなかった」


 オリヴィアが弁護士から聞いているのは、リアムは『公爵家嫡男』だということ。本来その立場だった兄のマシューが事故で亡くなったので、リアムが家督を継ぐ立場に繰り上がったということだ。それにより彼は、今回の偽装結婚に巻き込まれた。


 それで、だ――リアムは現状『公爵家嫡男』であり、『セントクレア公爵』と呼ばれる立場ではない――つまりお父様がご健在ということになる。


 結婚式はまだとはいえ、花嫁としてこちらのお屋敷にやって来たので、セントクレア公爵にすぐに挨拶すべきだった。


 ……迂闊だったわ、とオリヴィアは思う。


 出会ってからのリアムとの会話が刺激的で、すごく楽しくもあったから、色々なことが頭から飛んでしまっていた。


 反省しきりのオリヴィアであるが、それは見当違いだったようだ。


 というのも、


「父は不在にしている」


 彼がそう答えたからだ。


「いつ頃お戻りなのですか?」


「分からない」


「え?」


 意味が分からなくて、隣にいる彼をまじまじと見上げると、リアムがこちらを流し見て、淡い笑みを返す。


「足元、気をつけて。……この台詞、二度目だね」


 そうだった。昼間この階段を上っている時に、オリヴィアがお喋りに夢中になっていたら、同じように彼が気遣ってくれた。


「そうですね、ありがとう」


 オリヴィアは慌てて足元に視線を落とした。確かに階段の途中なので、よそ見は危ない。


 足を進めながら、隣にいる彼が落ち着いた声で続けるのを、オリヴィアは伏し目がちのまま聞く。


「父がいないのは、当家では当たり前のことなんだ。ちょっと変わった人で……責任もなく気楽に過ごせているうちは善人でいられるけれど、何かに縛りつけられると耐えられない人だから」


「そうでしたか……」


「兄のマシューがずっと父の代わりを務めていた。兄はとても優秀な人だった」


 リアムの声があまりに静かなので、オリヴィアは顔を上げ、チラリと彼の横顔を見遣った。


 ……それで見たことを後悔した。


 リアムの表情は落ち着いていて、一見平静に見えた。


 けれど彼は深く傷ついていた。それがオリヴィアには分かった。――彼の静かな佇まいは、大昔に鏡の中で見た、オリヴィア自身の姿と重なったから。九歳の頃の、すべてに絶望していた自分と。


 たぶん彼は兄のことを心から大切に想っていたのだ。


 ――兄のマシューは少数派だと語っていたリアム。その複雑さが、リアムを余計に傷つけたのではないか。


 たくさんの言葉を吞み込んできた人が、兄を亡くし、行き場のない想いを抱えて苦しんでいる。


 オリヴィアは俯きながら、胸の痛みを自覚していた。


 ……泣けないくらい、寂しい……彼は昔の私と同じだ。私たちはとても似ている。


 彼が続ける。


「母もマシューの葬儀後、すぐに旅立った。家にいると彼のことを思い出すから、つらくて……というわけでもないと思う。母も父同様、元々屋敷には居着いていなかったから。――彼女は父の適当さに愛想を尽かして、自身もあちこち放浪するようになったんだ。父よりも頻繁に帰ってはくるけれど、ここに定住はしない。今は確かパールバーグに行っている」


「パールバーグ」


 驚いた。これまで暮らしていたあの国のどこかに、リアムの母もいたのか。


 ……とはいえ、大貴族の奥様が滞在しているハイソな地域と、庶民である自分が暮らしていた港町では、交差しようもないのだけれど。


 意外すぎて思わず足が止まっていたらしい。気づけばリアムも立ち止まり、こちらを見おろしてにっこりと笑った。


「ここはまだ食堂じゃないよ」


 そう、まだ階段を下りきっていない。


 オリヴィアもまた微笑みを浮かべていた。


「このぶんだと私たち、永遠に食堂に辿り着かないかもしれません」


「完全に君のせいだね」


「いいえ、あなたのせいです」


「じゃあ抱き上げて運ぼうか?」


「……ごめんなさい、私が悪かったわ。それじゃあ、せーの、で歩き始めましょう」


「いいね」


 オリヴィアは約束を破り、澄まし顔で足を踏み出した。


「あ、ずるいぞ。せーの、で歩き出す約束だ」


「あなたが遅いから悪いのよ」


 オリヴィアがくすりと笑う。


 彼も笑みを零した。


 こんなやり取りをするうちに、少し前の悲しい空気はどこかに消え去ってしまった。


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