第27話 君は天使


 五通目を受け取った際、オリヴィアは書面の中におかしな点を発見した。


 ピタリと動きを止めた彼女を、隣席のリアムが見遣る。


「どうかした?」


「これ……」


 オリヴィアはもう一度ざっと内容に視線を走らせ、それをデスク上に置いた。そこには船の設計図と説明書きが書きこまれている。


「もしかしてパールバーグ語を翻訳しました?」


「よく分かったね。原本がなく、翻訳済のこの状態を見ただけで。――原本は図面の隣にパールバーグ語のメモがぎっしりで、余白に翻訳を書き込むことができなかった。そこで白紙に図面部分を正確にトレースしてから、パールバーグ語に堪能な役人が、書かれていたものを翻訳して、こちらの言葉で図面横に書き込んだ」


 では図面は正確なのだ――トレースしたのだから。確かにオリヴィアがざっと見たところ、図面に間違いはなさそう


 問題は翻訳。


「この船の形はパールバーグで見たことがありますが、新しいタイプです。おそらく現状で、造船の技術はパールバーグが世界で一番進んでいる。だからこの資料はパールバーグから出たもののはずだと思って」


「そのとおりだ。当国イーデンスはこの分野で少しパールバーグより遅れている。陸地での貿易で十分に利益が出ていたから、危険を冒してまで海を渡るのも……という皇帝陛下の意向があって、これまでは積極的に進めてこなかった。でも陛下が最近考えを変えられて、『ここで流れに乗っておかないと、近い将来、致命傷を負うことになるかも』と言い出した。それで当国はパールバーグから技術を学ばせてもらうことになった。こちらもそれ相応のものを提示してね」


 ギブアンドテイクで図面を入手したらしい。しかしせっかく手に入れたのに、これでは……。


「そういえば、セントクレア公爵領の端は海に面していますよね。国を挙げての一大事業を、これからリアムさんが一手に仕切る形ですか?」


 メンツの問題もあるから、大貴族であるセントクレア公爵家がこの仕事を手がけると決まったなら、他家は余計な手出しをしないようにと、皇帝陛下が指示を下しているのではないか。


「そう――これは兄のマシューが皇帝陛下から命じられて始めた仕事なんだが、彼はもういないから僕が引き継ぐ。色々と兄が形にはしていってくれたが、実際に進めていくのはこれからでね」


 リアムに代替わりし、一発目の大きな仕事がこの海運事業なのか。では失敗した場合、彼の立場はとてもまずいことになる。


 オリヴィアは血の気が引いていくのが分かった。


 ……このままでは失敗するわ……彼女の手が微かに震える。


「この翻訳、たぶん間違っています」


「え?」


 リアムが目を瞠る。


「しかし――」


 彼は言いかけ、そのまま考え込むように口を閉ざした。


 ……信じてもらえないかも……オリヴィアは心臓が凍りつきそうだった。だって彼がオリヴィアを信じる根拠がない。


 この書類は、パールバーグ語に堪能な役人が翻訳したものだ――そう先ほど彼が言っていた。この大帝国の役人になれるほどの人材だから、とても優秀なのだろう。そして翻訳の主担当はひとりでも、その後何人もが目を通して、ミスがないか確認しているはず。


 そうして出来上がったものをポッと出の女性が見て、『たぶん間違っている』と言ったとしても、誰がまともに話を聞くだろう?


 しかもその女性は、ここイーデンス帝国の属国であるバンクス帝国の出である。格下も格下――加えてオリヴィアは何かの権威というわけでもない。


「なぜ間違いだと?」


 リアムの声音は落ち着いていた。それでオリヴィアは少し勇気づけられ、彼の顔を見つめ返した。


 彼の佇まいは誠実で穏やかだった。オリヴィアもまた彼に対して誠実でありたいと思った。


「――この船底の形は、私がパールバーグに住んでいた時に、『トリーチャー』さんから『こうしたほうが船は速くなるよ』と教わったものです」


「トリーチャーさん――君の守護神か」


 以前彼に話した、とても強い六十代の女性の話を、リアムは覚えてくれていたらしい。


 何気なく話した雑談を相手が覚えてくれていたのは嬉しいもので、オリヴィアは微かに笑みを浮かべていた。


 伝えなければならない内容が深刻なだけに、助かった。


「ええ、そうです。岩の神トリーチャー」


 互いに笑みを交わす。少しリラックスできたので、オリヴィアの口調から硬さが消える。


「速くなるはずなのに、翻訳のメモには『この形にすると、重くなる、遅くなる』と書かれています。これはたぶんパールバーグ語の『デライル』という言葉の翻訳ミスです。――この単語はかなり特殊で、上流階級では『重厚な、立派な』という意味で使いますが、港で暮らす庶民のあいだでは『速い』の意味で使われるんです。翻訳した方はご自身の知識から『重厚な』と訳して、それを『重い』『遅い』というふうに変換したのだと思います。……ええと、パールバーグという国はね? すごく自由なの。こういう船も役人が仕切って作るのではなく、現場の職人が権限を持っていて、やりたいようにやる。だから造船に関わる言語はかなり独特で、上流階級の人が知りえない表現が多いと思います」


「なるほど。では『デライル』以外にも、同様の翻訳ミスは起きているかもしれない。役人は港町の生きた言語など知らないのだから」


「そうですね」


 リアムは考えを巡らせてから、きっぱりした口調で告げた。


「至急パールバーグ語で書かれた原本を取り寄せる。皇宮で保管されているはずだから、一週間以内には届くはずだ。それを全部君が見直してくれる?」


「それは構いませんが、皇宮から反発がありませんか? 仕事を否定されたことになりますし」


「そもそもこれは皇宮のミスだ。至急現地の言い回しを確認しろと、こちらから圧をかける。自分で間違いを確認すれば、平謝りしてくるはずだよ。でもこのまま役人に任せっぱなしにしていると危ないから、君にやってほしい」


「分かりました。頑張ります」


 オリヴィアはいつもの彼女らしく、柔らかな笑みを浮かべた。


 リアムは穏やかにそれを見つめ、彼女に問う。


「君はパールバーグで事務系の仕事をしていたと言っていたけれど、具体的には何をしていたの?」


「船の設計図の清書です。東岸は『トリーチャー』さんがその件を取り仕切っていて、私は字も丁寧だし、性格も几帳面で間違いをしないから、任せるとおっしゃって」


 リアムは目を瞠り、オリヴィアをマジマジと見直した。


「じゃあこの図面はそもそも、君が清書したものがこの国に回ってきたのかな?」


「かもしれませんが、違うかも。パールバーグの南岸はまた別の人が仕切っているので、造船技術も少し異なります。パールバーグのお役人が、どこの港から入手したか、ですね。原本を見れば、出所は分かると思いますが」


 リアムはしばらくのあいだ物思う様子でオリヴィアを見つめていたのだが、やがて気が抜けたようにこう言ったのだった。


「……僕は神様に謝らなければ」


「どうしてですか?」


「先ほど『神様は意地悪』と言ってしまったが、今起きているすべての出来事が、僕にとって人生最大のラッキーなのだと気づいた。――君は天使だ」


 オリヴィアの頬が赤く染まる。


「たぶん私も……今起きているすべての出来事が、人生で一番のラッキーです。あなたに会えたことが、すごく幸運だわ」


 執務室で男女ふたりが初々しく赤面し、しばらくのあいだ言葉も出ないのだった。



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