第43話 世界一可愛い、僕のオリヴィア
夜会までの半月はあっという間に過ぎた。
とにもかくにも、まずはお仕事――パールバーグ国の東岸にいるトリーチャーたちと繋ぎをつけるのは、最優先で行わなければならない。
オリヴィアはトリーチャー宛に、変わった方法でメッセージを送ることにした。
一般的な連絡方法としては手紙が用いられるが、最近は電信という新しい技術が登場している。遠隔地であっても、符号を用いた電信で、簡単なメッセージならやり取りができるのだ。かなり高額であるし、短文のやり取りしかできないが、急ぎなのでこれを使用することにした。支払いはセントクレア公爵家が持ってくれるので、その点は心配しなくてもいい。
――『セントクレア公爵家の海運事業にどうか協力してください。オリヴィア』――
これだけで意図が通じるのか? という、こちらの要求だけを伝える文面だが、オリヴィアは良い返事があることを信じていた。……きっとトリーチャーさんなら分かってくれる。
数か月前のこと――十年お世話になったパールバーグ国を去る際、オリヴィアは自身の偽装結婚については触れず、ざっくりした事情だけを説明した。
『実家から連絡があり、イーデンス帝国のセントクレア公爵家というところに行くように言われました。お仕事のようなものですが、私自身も良い話だと考えています』
オリヴィアはトリーチャーに身の上話をしたことはなかったけれど、彼女は色々と悟っているようだった。
そもそもトリーチャーのところにオリヴィアが世話になることになったのは、弁護士ホリーの紹介である。
ホリーは元々ワイズ伯爵家に仕えるメイドの娘だった。ホリー自身もオリヴィアの幼少期に数年間ほど、ワイズ伯爵家でメイドの仕事をしていたことがある。独立心旺盛で頭の良かったホリーは、オリヴィアが六歳の時に広い世界に羽ばたいていってしまったから、短いあいだの話ではあったが。
当時からなぜか彼女はオリヴィアのことを気に入って、よく話し相手になってくれた。そしてワイズ伯爵家を出たあとも定期的に連絡をくれていた。
十七歳の時にオリヴィアがとんでもないことをやらかし、実家に居場所がなくなった時に、『あなた、パールバーグに行ったら?』と真っ先に声をかけてくれたのもホリーだった。
……なぜパールバーグなのだろう? 不思議に思ったら、ホリーはパールバーグにいるトリーチャーという女性と仕事で関わったことがあるらしい。その縁で職場と住処を紹介してくれた。
だから仲介者のホリーからトリーチャーへ、オリヴィアの事情はある程度伝わっているものと思われた。オリヴィアのほうからその辺を確認したことはなかったけれど。
――電信は高額なので、トリーチャーからの返事は船便の手紙で来ると思っていた。しかしあちらからも電信で返信があった。リアムから「返事が来たよ」と紙片を手渡され、オリヴィアはそれに目を通した。
――『了解。ハンターをそちらに向かわせる。トリーチャー』――
「ハンター氏というのは、どういう人?」
リアムに尋ねられ、オリヴィアは少し落ち着かなければならなかった。
彼に返事をするオリヴィアの頬は興奮のためか赤らんでいる。
「パールバーグの東岸で、一番腕の良い船大工です」
「それはすごい」
リアムの表情はそんなに変わっていなかったが、彼はかなり驚いていた。驚きすぎてリアクションが取れなかったくらいだ。
――パールバーグは今や造船技術で世界のトップに立っていると言っても過言ではない。その中でも東岸はかなりやり手のようだから、東岸で一番腕の良い船大工ということは、世界一の職人ということになる。
そんな重要人物を派遣させてしまうオリヴィアとは、一体……?
リアムの疑問を悟ったのか、オリヴィアが微笑みを浮かべる。
「私のためにここまでしてくれたわけではないと思いますよ。トリーチャーさんは情に厚いですが、ビジネス上では結構シビアです。――彼女は元々セントクレア公爵家に関心がありました」
「なぜ? 直接関わりはないはずだ」
「直接ではなくても、間接的にはあるんです。――実は、ワイズ伯爵家の弁護士であるホリーさんは、トリーチャーさんと仲良しでして。ホリーさんは元々セントクレア公爵家――あなたのお兄様とも関わりがあったので、トリーチャーさんに前からその話をしていました。――セントクレア公爵家の次期当主は相当なキレ者だから、もしもビジネスで組めるチャンスがあったなら、それを絶対に逃がさないで、と。トリーチャーさんは博打打ちでもありますから、ここぞという場面では思い切った賭けに出る。彼女はこのタイミングで、セントクレア公爵家に全額賭けることにしたようですね」
「彼女の博打の勝率は?」
「私が知る限り、大きな勝負では負け知らずです」
オリヴィアはにっこりと笑った。
リアムはしばらくのあいだ物思う様子でオリヴィアを見つめていた。彼の菫色の瞳には穏やかな温かみがあった。
「――でもやはり、君が頼んでくれたからだよ」
「リアムさん?」
「トリーチャーさんは君に頼まれたから、ハンター氏をこちらに送ることにした。僕にはそう思える。一連の出来事から、君が真面目にパールバーグで仕事をしてきたのがよく分かる。もしも君がトリーチャーさんの信頼を得ていなければ、世界一の船大工がこちらにやって来ることは絶対になかったんだ」
オリヴィアは何か言おうとして、胸がいっぱいになってそれができなかった。
彼の瞳を見つめる。――彼もこちらを夢見るように見つめ返してきた。
今ふたりは執務室のデスク前で向き合っている。イスに腰かけずに立ち話をしていたので、互いのあいだを遮るものは何もない。
――リアムの手が伸びてきて、オリヴィアの腰に回る。
オリヴィアは彼の腕の中にすっぽりと包み込まれてしまった。物理的な距離が近づいたせいか、一気に親密な空気に変わる。
オリヴィアは無意識のまま彼の脇腹に手を添えていた。これは照れてしまって制止する意図があったのか、その逆に甘えて縋っているのか、微妙なところだった。
「……オリヴィア」
彼に名前を呼ばれると、鼓膜がジンと震える。互いの距離がさらに縮まる。引き寄せられるように……
そのタイミングで無粋なノックの音が響いた。――それは連打に近い、せっかちな叩き方。
リアムは「どうぞ」と許可しなかった。現に彼はオリヴィアの腰に腕を回したままで、それを解いてはいない。けれどドアは勢い良く開かれた。
「お邪魔しまーす!」
現れたのはクラリッサだ。彼女は素早く室内の様子を一瞥し、寄り添うふたりに目を留めると、仁王立ちになり、腰に手を当てた。十一歳の彼女はまだ体が小さいので、精一杯大きく見せようとしているのか、肩を上に持ち上げている。
リアムはリアムで抵抗の意志があるのか(?)、クラリッサが乱入してきても、オリヴィアを放そうとしない。
「……確かに『お邪魔』だ」
リアムとクラリッサは出会ってすぐに仲良しになっていたので、こういうやり取りにもまったく遠慮がない。『邪魔だ』と告げたリアムは怒ってはいなそうな感じだが、愉快そうでもなかった。案外、本気の台詞かもしれない。
「結婚前にそういうことをしてはいけません」
「そういうことって何?」
「いかがわしいこと」
「人聞きの悪い」
「キスは結婚式で初めてするのよ。その前にしてしまったら、もっと先に進みたくなるからだめ」
クラリッサが驚愕の自分ルールを押しつけてくる。……なんてことを言うのかしら! オリヴィアの頬が赤く染まる。
ところがリアムはシレッとした態度で言い返した。
「ただ見つめ合っていただけだよ」
「本当に?」
「本当に」
「キスしようとしていなかった?」
「していなかった」
「嘘つきは地獄行きですよ」
「そうだなぁ……もしかすると、優しいオリヴィアはキスしてくれるつもりだったかもしれない」
リアムが悪戯に口角を上げるので、恥ずかしくて仕方ないオリヴィアは彼をたしなめるようにポンと胸を叩いた。
それでこちらの腰に回されていた腕の拘束が緩んだので油断していたら、彼の左手がオリヴィアの後頭部に回された。髪の中に指を差し込まれ、くすぐったさを感じているあいだに、不意打ちで額にキスされる。
彼が幸せ一杯といった様子でギューッとオリヴィアを抱きしめた。
「世界一可愛い、僕のオリヴィア」
見せつけられた形のクラリッサはすっと半目になり、ツカツカと歩み寄ってきた。体をねじ込むようにして、ふたりを引き剥がす。
「はい、はい、離れて、離れて」
……リアムからやっと解放されたオリヴィアの耳は真っ赤に染まっていた。
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