第6話 子犬のような瞳で見られても
さて。
――ミドルネームの『クロエ』を封印し、『オリヴィア』で通すことに決めた女性と。
――結婚相手は『クロエ』という名前だと信じ込んでいるものだから(だって書類にはすべて『クロエ・ワイズ』としか書いてないのだし)、やって来た『オリヴィア』は、おそらくクロエの使用人なんだろうなと考えている男性と。
ふたりが出会ったら、どうなるのか。
通常ならば、ある段階で誤解が解けて、正解に辿り着きそうなものであるが、果たして――……
* * *
オリヴィアはリアムの顔を見上げ、呆気に取られていた。
び、びっくりした……十九歳って、もっと子供っぽいかと。
よくよく考えてみたら、世間一般の十九歳といえばもう大人同然なのだが、『八つも下』という思い込みが強すぎて、男の子のような外見を勝手にイメージしていた。
それで対面してみれば、なんというか意表を突くほど美形な人で、色々な意味で衝撃を受けてしまったのだ。
彼のアメジストのような鮮やかな紫の瞳には、しっとりした落ち着きと清潔感がある。お日様を思わせる艶やかなブロンドの髪は長く伸ばしていて、後ろでひとつに結んでいた。
優美で美しい佇まいだけれど、中性的な線の細さはない。背がすらりと高く、視線を合わせようとするとオリヴィアのほうは頭を後ろに倒さないといけないので、なんだか圧倒されてしまった。
彼の外見は、オリヴィアの記憶の奥深くを刺激した。……大昔の、甘いような、切ないような思い出。センチメンタルな気持ちになり、リアムに対して少しだけ特別な、思い入れのようなものが芽生えた。
緊張しながらも、なんとか自分の名前を名乗り終え、ホッと息を吐く。……今度は迂闊にワイズ伯爵姓を名乗らぬよう、ファーストネームの『オリヴィア』だけを口にした。
それから今回のご不幸について触れる。目の前にいる彼は兄を亡くしたばかりだ。
「この度はご愁傷様です。突然のことで――」
オリヴィアは亡くなったマシューに会ったことがなかったけれど、本当に気さくで良い人だったと聞いていたから、ご家族は相当つらかったに違いない。
オリヴィアがこちらに来るまで、移動にかなり日数がかかっているので、実家を出た時には健在だったマシュー氏はその間に亡くなり、すでにもう葬儀も済んでいるそうだ。けれど葬儀が終わってからのほうが、遺族の悲しみは深くなるものかもしれない。人はやることがある時は、まだ気を張っていられるから。
リアムはお悔やみの言葉を聞いて、表情を曇らせた。
「ご丁寧に、恐縮です。……申し訳ないが、兄の話はまだ」
したくない、と最後までは口にしなかったものの、オリヴィアはリアムの意図を汲み取った。
マシューの話題は非常にデリケートだった。リアムからすれば悲しみはもちろんあるだろうし、そのほかに、今回の偽装結婚に巻き込まれたという、どうしようもないやるせなさもあるはず。
オリヴィアのほうも掘り下げたい話題でもなかったので、この件に関しては以降触れないようにしようと思った。
少し気まずくなって視線を下げると、
「……オリヴィア・ワイズさん……で合っています? 執事のハーバートにそう名乗られたとか」
声をかけられ、顔を上げる。……ああどうしよう、この件が蒸し返されるとは!
オリヴィアはしどろもどろに答える。
「ええと……私はワイズ伯爵の身内の者で、その……」
「あなたが名乗るべき、本当の名前は?」
「オリヴィア・ギルです」
「家格は?」
「子爵です」
「では――あなたは対外的に、オリヴィア・ワイズと名乗るべきではないのでは?」
冷静に指摘され、オリヴィアの頬にふたたび朱が差す。
「はい、あの……ごめんなさい」
この上なくみじめな気持ちだった。オリヴィアはセントクレア公爵邸に足を踏み入れたあの瞬間から、全部やり直したくなった。
リアムは物思う様子で彼女を見おろしながら、さらに尋ねた。
「ワイズ伯爵令嬢とあなたは、ご家族のようなお付き合いをしているということですか?」
……ご家族のような……というか正真正銘ご家族ではあるのだけれど。オリヴィアは眉尻を下げる。
ちゃんと答えたいのだけれど、また失言してしまいそうで、困ってしまってリアムの端正な顔をじっと見上げた。
――現ワイズ伯爵夫人は厳格な人だから、厄介者のオリヴィアが外で家族面をするのを、きっとよく思わない。リアムはオリヴィアがワイズ伯爵家の人間だということを知っているはずなのに、こうして何度もこちらの立場を確認してくるということは、ここでどういう受け答えをするか試しているのかも? たとえばワイズ伯爵夫人と元々知り合いで、『オリヴィアが外でワイズ家の名を口にしてアピールしないよう、よく見張っておいてくださる?』と頼まれているとか?
この時のオリヴィアは意図せず、くぅん……と哀しげに鳴く子犬のような瞳を彼に向けてしまっていた。リアムは顔にこそ出さなかったものの、これにより内面世界が嵐に巻き込まれたような状態になる。
「オリヴィアさんは……ワイズ伯爵令嬢の面倒を見ているのですか?」
彼女が何も答えないので、リアムは混乱しながらもそう質問した。なんというかもう、『たぶんこの子、悪い人間じゃないから、納得する答えを出してもらって、疑うのをやめにしたい』という気分だった。
「ええと、私はワイズ伯爵家で、彼女の家庭教師をしていました。――語学の」
この質問はオリヴィアにとっていくぶん答えやすいものだった。
セントクレア公爵家との偽装結婚の話が持ち上がり、パールバーグで暮らしていたオリヴィアは、一旦実家であるワイズ伯爵家に呼び戻されることになった。そこでしばらくのあいだ、オリヴィアは妹にパールバーグ国の言葉を教えていたのだ。なんせオリヴィアはあそこで庶民として十年も暮らしていた。読み書きは不自由なくできる。
パールバーグは今勢いがある国なので、パールバーグ語を覚えておくことは、妹クラリッサにとって大きくプラスになる。クラリッサも語学を習得することに意欲的だった。
「なるほど」
リアムが納得できたというように小さく頷いてみせた。
オリヴィアはあることを思い出した。
「そうだわ、私――ワイズ伯爵家からお手紙を預かっております」
中身はよく分からない。封蝋がしっかり押されているので、開封することもできないし、オリヴィアは中を見るつもりもなかった。記されているのはきっと、家同士の事務的な連絡事項だろう。
リアムに手渡すと、彼はそれを手早く開封し、目を通し始めた。
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