第41話 マーガレットからの手紙①
帰りの馬車でリアムが語った内容は、オリヴィアに衝撃を与えた。
――彼はずっと『クロエ・ワイズ』と『オリヴィア』は別人だと思っていたのだ!
そんなことがありうるのかしら?
初めは彼の言っている意味が分からなくて、出会った日から時系列順に振り返っていった。――こういう流れで、オリヴィアがこう言ったから、こう解釈して――そうして結構な時間を費やして検証した結果、ふたりの口から出た言葉は「なんでこうなったのか、分からない」だった。
神様が意地悪したとしか思えないほど、誤解に誤解が重なってしまったようである。……そういえば過去に彼とやり取りしていて、『?』と感じた瞬間は何度かあったのだ。それは彼も同じだった。
けれどたいしたことではない、と流してしまった。人は会話をしている時、誰でも言い間違いをするものだから、相手の言うことに違和感を抱いたとしても、あえて指摘しないというのはよくある。
過去の間違いよりも、オリヴィアは彼の愛情を知ることができて嬉しかった。
まず、出会った日に釘を刺されたあの台詞――「君を愛することはない」というのは、オリヴィアに対して言ったわけではなかった。彼は約束していたクロエ・ワイズが現れなかったことから苛立ちを感じていて、ついそんなことを言ってしまったとのことだ。
彼は「当家にやって来た君は教養があり、穏やかで、すごく素敵な女性だったから、オリヴィアが花嫁だったらいいのにと思ったんだ」と告げてきたのだが、さすがにそれはリップサービスだろうとオリヴィアは解釈し、笑みを返しておいた。……そうしたらリアムが「信じていないな」とぼそっと呟きを漏らしていたけれど。
それから偽装結婚の契約書に不備を見つけ、契約を破棄しようとしていたのは、オリヴィアのための行動だった。オリヴィアはあの時彼に拒絶されたと感じていたけれど、実際のところは真逆だったのだ。――彼はずっとオリヴィアを求めてくれていた。
オリヴィアは彼を愛おしげに見つめながら、あの時自分が思ったこと――『あなたのそばにいたいから、困らせないよう、気持ちに蓋をしようと決めた』と伝えると、彼は額を押さえて俯いてしまった。……「君にそんな思いをさせてしまったなんて、胸が痛い」と言って。「気にしないで、あなたは悪くない」とオリヴィアが慰めるほど、彼は落ち込んでいくようだった。
ちょっと可哀想な気もしたけれど、こういうリアムの優しさがオリヴィアは大好きなので、結局ニコニコして彼を眺めてしまうのだった。
三十分ほど前、彼につらい過去の出来事を語り、涙を流していたのが嘘のようだ。――けれどあれは必要なことだったと思う。
オリヴィアは苦しかった気持ちを吐き出したことで、楽になれた。心の底のほうに澱のように溜まっていた黒く膿んだものが、別のものに変わった気がした。過去の苦しみをなかったことにするのではなく、過去は過去として冷静に捉えられるようになった。
過去は変えられない。そして変えるべきではないのかもしれない。
あの過去があったから、今のオリヴィアがある。自分ではどうしようもない、ままならないことを経験した過去があるからこそ、その乗り越え方も学べた。
――だって今、生きている。日々を過ごし、当たり前の生活をして、なんとか生きてこられた。これから先、同じようにつらいことが起きたとしても、きっと乗り越えられる。だって過去の自分にはそれができたのだから。
* * *
話が一段落したところで、隣席に行儀よく腰かけていたクラリッサが口を開いた。
「私がお手紙にC・ワイズと書かずに、ちゃんとクラリッサ・ワイズと書けばよかったです。ごめんなさい」
ちなみにクラリッサは老齢の侍女ひとりを伴い、バンクス帝国からはるばる旅をしてきたとのことだ。老齢の侍女はリッツ・ギャラリーまで付き添ったものの、クラリッサの荷物があるので、別の馬車にひとりで乗っている。長旅で疲れているだろうに、美術館まで連れてこられて気の毒である。今頃ひとり車中で眠りこけているかもしれない。
普段はなかなかに図太いクラリッサであるが、手紙の署名にC・ワイズと書いてしまった件を反省して、シュンとしているように見えた。
リアムが穏やかにクラリッサを見遣り、声をかける。
「君の手紙は完璧だったよ」
「そうですか?」
「うん。今振り返ってみると、大事なポイントをすべて押さえていた。君の真心と主張が明快に伝わる、好感の持てる手紙だった」
「じゃあよかったです」
現金なもので、クラリッサの表情が明るくなる。
オリヴィアはふとあることを思い出し、隣のクラリッサのほうに向き直った。
「そういえばあなた、私に用があったと言っていた?」
リッツ・ギャラリー前の広場で久々に対面し、クラリッサが懐に飛び込んできた時に、そんなことを言っていたような?
確かあの時『手紙を出した』とも言っていたが、何があったのだろう?
クラリッサがハッとした様子で手を伸ばしてきて、オリヴィアの服の袖を掴む。彼女のあどけない顔が不安そうに強張っているのを見て、オリヴィアは息を呑んだ。
「大変よ、オリヴィア――マーガレット・コックスがこちらに来ている」
「え?」
話の主筋とは関係がないが、『マーガレット・コックス』という響きに感慨を覚えた。オリヴィアが知る彼女の名前は『マーガレット・ガースン』である――つまり彼女はその後、ディラン・コックスと結婚できたのだ。
オリヴィアはこれまで彼らがどうなったのか調べようと思ったことがなかった。そこまでの執着はなかったから。だからふたりが結婚したとて、どうということもないのだが、知ってしまえば、『へぇ』という気持ちにはなる。
マーガレットは欲しいものを確実に手に入れる女性だった。したたかで粘り強かった。だから彼女はオリヴィアが退場したあとも、すべきことをしたのだろう。
「マーガレット・コックスはイーデンス帝国に来ているのよ、嫌な感じがする……実はね、彼女、オリヴィアにコンタクトを取ろうとして、ワイズ伯爵家に何度か連絡してきていたの」
「私がバンクス帝国に帰っていた時?」
オリヴィアは十年間パールバーグ国で過ごしていたのだが、今回の偽装結婚の話が持ち上がり、故郷のバンクス帝国に一旦戻った。ひと月ばかり実家に滞在していただろうか。その後船に乗って旅をして、イーデンス帝国にやって来て、今に至る。
「そう。オリヴィアに知らせることもないと、母のほうで断っていたらしいのだけれど、マーガレットがあなたを追うようにイーデンス帝国に渡ったと聞いて、私、居ても立っても居られなくなって。すぐに出発してこちらに来たのよ」
「今更マーガレットがなんの用で……」
オリヴィアの言葉は次第に小さくなり、それ以上続かなかった。マーガレットとは十七歳の時、オリヴィアが婚約破棄された瞬間に縁が切れている。今更彼女がオリヴィアに用があるとも思えなかった。
……イーデンス帝国に来ているというのは、たまたまそうなっただけでは?
いえでも、そうか――オリヴィアがバンクス帝国に戻っていたあいだに、コンタクトを取りたがっていたというから、彼女なりに重要な用が何かあるのかもしれない。
「――今朝、君宛てに二通の手紙が届いていた」
対面に腰かけているリアムが、フロックコートの内ポケットから手紙を取り出した。
「出かける前に渡すと外出を楽しめないかと思って、僕が預かっていた」
オリヴィアは彼が差し出してきた二通の手紙を受け取った。
すると隣からひょいと手が伸びてきて、クラリッサが一通を持っていってしまう。
「これは私が出した手紙だわ。さっき伝えたことを走り書きしたものだから、私が回収する」
オリヴィアは片眉を上げ、彼女もひょいと手を伸ばして、クラリッサから手紙を取り返した。
「これは私宛の手紙よ。私がもらう」
「だけど差出人は私だから」
「だめ」
「どうして?」
「あなたがくれた手紙は、どれも大事に取ってあるの。これも取っておく」
私がどれだけ嬉しかったか、あなたは知らないでしょうね。
パールバーグで暮らしていた時、クラリッサから送られてくる手紙は心の支えだった。
彼女が赤ちゃんだった時にオリヴィアは家を出たから、クラリッサは姉の顔もろくに知らなかった。そんな姉のことを、あなたは気にかけてくれた。どんな手を使ったのか、オリヴィアの住所を突き止めて、手紙を送ってくれたのだ。文通は途切れることなくずっと続いた。
幼かった文面が段々と大人びていくのを見ては、月日の流れを実感したりもした。嬉しくもあり、寂しくもあった。
家族だけれど、もう会えないかもしれない。
でもね――人生って何が起こるか分からない。また会えたよ。バンクス帝国に戻った時、あなたに会えたことが一番嬉しかった。
一緒に過ごせたのはひと月ばかりのことで、すぐにイーデンス帝国に来てしまったから、また遠くなってしまったけれど――あなたはもう大きくなったのね。自分の意志で、ここまでやって来た。
クラリッサは手紙を取り返されたことに、びっくりしたようだった。膝に手を置いた姿勢で、オリヴィアをじっと見返していた。……やがて顔を正面に向け、そっと目を伏せる。表情からは何を考えているのか分からなかった。オリヴィアと同じで、ひとことでは言い表せない複雑な気持ちを抱えているのかもしれなかった。
オリヴィアは穏やかな視線でクラリッサをもう一度見つめてから、手の中の封筒に視線を落とした。クラリッサの手紙は膝の上に一旦よけておき、もう一通を確認する。
「……マーガレット・コックスが差出人だわ」
オリヴィアは顔を上げてリアムと視線を交わした。心がザワザワと波立つ感じがしていたけれど、彼の瞳を見たら落ち着くことができた。
「開けてみる」
ふたりの前で開封し、手紙に目を通し始める。
クラリッサがすっと身を寄せてきて、隣から覗き込んできた。
手紙にはこう書かれていた。
『クロエへ
十年ぶりね。堅苦しい挨拶は抜きにして、本題に入るわね。
あなたには色々確認しておかなければならないことがあると思う。
あなたがまさか、イーデンス帝国の公爵家に嫁入りするなんて! だけどまだ本決まりではないわよね? だってこんなの――ああ、上手く言えないわ――気を悪くしないで、クロエ。
先方はあなたの過去を知っているの? 知っていたら、だって……
そういうことも含め、色々確認する必要があるわ。ええ、どうしても確認しておく必要がある。
私から言いたいこともあるし。
ねぇ、アンバーを覚えている? 冴えない見た目の、近視のアンバー。子爵令嬢だったけれど、今は伯爵夫人よ。びっくり。私と同じね。
あの子と今ちょっと組んでいて――化粧品を作ってね、上流階級に紹介しているのよ。別にお金になるからどうこう、じゃないの。お金には困っていないし。――ほら、貴族階級にいると、そういうものをお仲間に紹介していくのもステータスになるでしょう?
アンバーのコネで――といってもアンバーの手柄ではないのよ、彼女の姉のツテを頼っただけ――今イーデンス帝国に来ているの。私が今いるのは、ビッセル伯爵領よ! どうやらあなたがいるセントクレア公爵領の近くみたいね。セントクレア公爵領には行ったことがないわ、興味もないし。それでね、私、ビッセル伯爵のお屋敷も遠目で見たわ――すっごい大豪邸! あなたのいるセントクレア公爵家はここまでじゃないでしょうね? ほら、爵位と裕福さって関係ないから。
ええとそれで、アンバーがビッセル伯爵夫人に化粧品を紹介しよう、って言ってる。こちらの女性ってちょっと老け顔の人が多いから、悩んでいるみたい。バンクス帝国の女性は若く見えるっていうんで、化粧品を紹介すると言ったら、わりと食いつきがいいの』
こちらに寄りかかるようにして手紙を読んでいたクラリッサがポツリと呆れたように呟きを漏らした。
「……老け顔に食いつきがいい、ですって。伯爵夫人のくせに、下品な言い方」
確かにそうだけれど。
マーガレットは元々こういう人間だ。けれどこういった面を見せるのは、オリヴィアに対してだけだった。外に向けては(特に魅力的な男性に向けては)、彼女はたおやかで物静かな女性でいられる。――少なくともオリヴィアが知る十代のマーガレットはそうだった。
この手紙も気心の知れたオリヴィア宛だから、ここまで遠慮がないのかもしれない。
……まぁそれにしても、よね……。
オリヴィアは妹クラリッサの毒舌を可笑しく感じ、淡い笑みを浮かべた。そうして手紙の一枚目を後ろに回し、二枚目を読み始めた。
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