第54話 マシュー
――数か月前。
マシューは恋人のテイラー・ウォーカーと一緒に馬車に乗っていた。
「本当にやる気かい?」
常識人のテイラーが案ずるようにマシューを見つめて尋ねる。慎重な調子であるが、それはテイラーが乗り気ではないというよりも、マシューが後悔しやしないかと気遣ってのことだった。
尋ねられたマシューは肩を竦めてみせる。
「周囲は僕を買いかぶりすぎなんだよ。よく他人から『貴族らしい貴族』なんて言われるけどさ――実際のところ、あの世界は僕にはまるで合わない。僕が男性を好きだとか、そういう問題じゃなくてね――単に合わないんだ。『いつか逃げ出してやる』と思っていなければ、とても持たなかったよ」
「でも君が急にいなくなったら、弟さんにすべての負担がいってしまう」
「彼は上手くできる」
悪びれもせず綺麗な笑みを浮かべるマシュー眺め、テイラーは小首を傾げる。
「そうかな? 彼はまだ若い」
「大丈夫。リアムは堅実なタイプだから」
「君は堅実ではないのか?」
「まったく違うね。飽きっぽい」
「そうかなぁ?」
「そうさ」
「ねぇマシュー、君は愛情深い人だよ。僕はそのことをよく知っている。……君は飽きっぽいから貴族社会に馴染めないわけではなく、優しすぎるんだ」
「馬鹿なことを。僕はとっても性格が悪いんだ」
「そう思っているのは君だけだ。弟君も優しい性格をしているが、そうだな――確かに彼のほうが、芯は強いかもしれない」
「……かもね。自慢の弟だよ」
少ししんみりしたのか、マシューは伏し目がちになり、口元に淡い笑みを浮かべた。マシューとリアムの面差しはとてもよく似ている。
――たぶん自分はこれから鏡を見るたびに、弟を思い出すだろう。
けれどこのまま進むことにする。……すまない、リアム。僕はこの国を去るよ。
テイラーが尋ねる。
「どうして国を去るのが決まっているのに、偽装結婚の契約など結んだんだ?」
「あの時はまだ僕も覚悟が決まっていなかった。弟の元を去るのはつらいし、偽装結婚でもして、貴族らしい貴族を続けていくのもいいかと思っていた。それでね、話はトントン拍子に進んだんだが……相手役の女性とは家族になるわけだから、弁護士のホリーに紹介されたオリヴィア嬢とやらを、直接見ておくことにしたんだ」
「ああ、そうだった」テイラーが可笑しそうに笑う。「君、ちょっと前にパールバーグに行っていたっけね」
「そうそう。オリヴィア嬢とは直接話をしなかったんだけど、直に見たらさぁ……いい子だったから、可哀想になっちゃって。僕は彼女を愛することはないわけだから。――あと、なんとなくだけれど、彼女はリアムと合うんじゃないかと思ったんだよね」
「それって大きなお世話じゃないか?」
「でも弟は僕のせいで、ちょっと色々拗らせちゃっているからね。誰かが大きなお節介でも焼かない限り、ずっと独り身かもしれない」
「確かにね」
「それにね、ちゃんと抜け道も用意しておいたんだよ。互いにどうしても合わないとなれば、リアムは偽装結婚の契約書を改めて見直すはずだ――そうしたら不備が見つかるようにしてある。契約はそこで解消できるよ」
テイラーはなんだか可笑しそうに対面に腰かけているマシューを眺めた。
マシューが愛したテイラーは絶世の美男子というわけではない。気さくで優しい顔立ちをしている。
「……それで、僕たちはどこで死ぬ予定なんだい?」
「船の事故ということにしようかと」
「そうか、悲劇的だな」
「無人の船を実際に沈めるから、港の漁師にはそれなりの報酬を渡してある。――リアムの元に訃報が届く頃には、僕らはパールバーグに渡っているさ」
ところがここで予想外のことが起こった。
ガタンと車体が大きく揺れたことで、ふたりは異変を悟った。箱型の馬車のため、車内にいるマシューたちからは御者の姿が見えない。しかし前方の壁越しに、御者が何か叫んでいるのが聞こえてきた。
マシューが窓の外を確認しようとして扉のドアノブに手をかけた瞬間、床が大きく傾いた。
「おい――」
ふたりは車体が落下しているのをはっきりと感じた。マシューが外を確認しようとしてノブに手をかけていたこともあり、外側にバタンと扉が開いた。
――ふたりの視界に飛び込んできたのは、遥か下に広がる緑深い森と、悠然と流れる大河――
マシューが瞳を煌めかせて、テイラーのほうに手を伸ばした。
「笑えるじゃないか、たぶん僕らここで死ぬぞ」
すさまじい衝撃はすぐに訪れた。重力に従い馬車は真っ逆さまに峠から落ち、地面に叩きつけられた。破片の大半は地面に散らばったが、その一部は近くを流れる川のほうに飛び、呑み込まれたようだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます