第55話 エビ


 ――現在。パールバーグ国の港町。


 海を眺めながら、屈強な船乗りがウイスキーを飲んでいる。彼は簡素な木のベンチに腰かけていた。先ほど船から下りたばかりで、今は休憩中だった。


 彼は口髭についた酒を舌で舐めてから語り始めた。


「嵐の夜に船から放り出された時が、『人生終わりだ』と思った瞬間だな。あたりは真っ暗で、水は冷たかった。船上の仲間が俺を見つけてくれたのは奇跡だった」


 木のベンチには船乗りのほかに、もうひとり聞き手が腰かけている。


 隣で船乗りの話を聞いていた男が優美な笑みを浮かべる。


「実はね、僕も似たような経験をしたことがある」


「嘘つけぇ。あんたは温室育ちって感じだぜ」


「それが本当なんだ。乗っていた馬車が崖から落ちてね――真っ逆さま」


「それが本当なら、あんたは今ここにいないはずだ」


「それがねぇ」


 男が楽しげに笑い出す。


「何がどうなったんだか……馬車の扉がポンと開いてさ、僕たちは外に放り出された」


「僕たち?」


「僕と恋人」


「ふぅん、それで?」


「奇跡的に川のほうに落ちたんだよ。僕の恋人は泳ぎが得意でね――気を失った僕を岸まで運んでくれた。御者も同じく川に落ちたようだが、自力で岸にたどり着いたようだな。御者とはそこで別れたから、彼のその後は知らない。――僕らは現地の人に頼んで死んだことにしてもらって、身軽になってパールバーグに渡って来たってわけ」


「どうしてだ? 生きていたんだから、家に帰りゃいいじゃねぇか」


「どうしてさ? 僕は次の扉を開けたんだ」


「なんだいそりゃ」


 ――マシューは手の中に持っていた金色の鍵を漁師に見せてやった。


「これは幸運の鍵だ――僕は最高にツイている」


「そうかい? ツイているやつの馬車は落ちないと思うが」


「いいや、違うね。今生きているから、僕はものすごく運がいい」


「そう言われると、そうかもしれねぇ。俺も船から落ちたけどしぶとく生き残ったからな。――ほれ、あんたも飲め」


 グラスを渡され、乱暴にウイスキーを注がれたマシューは、笑みを零しながら船乗りと乾杯した。


「ところで、あんたと一緒に川に落ちた恋人も、パールバーグへ渡ってきたのかい?」


「ああ、そうだ――エビを買ってくるよう、彼に頼まれたんだった」


「待たせると機嫌が悪くなるぜ」


「そうだね」


 マシューは一気に酒を煽り、


「ごちそうさま」


 と言って席を立った。




   * * *




 セントクレア公爵夫人は息子マシューの死後、パールバーグ国に渡った。あれからだいぶたつのに、まだここを離れられずにいる。夫人は今日も港町のカフェで、ぼんやりと時間を潰していた。


 ――まだ息子の死が信じられない。


 この目で遺体を見ていないというのも、現実感が薄い原因ではあるかもしれない。だけどそれだけではなくて――母親の勘と言えばいいのか、マシューはまだ生きている気がしてならなかった。……あるいはそんなものはまやかしで、精神的に脆いところのある彼女は、ただ息子の死を受け止めきれていないだけかもしれなかったが。


 パールバーグ国は同性愛者に寛容だと聞く。もしも……もしもマシューが生きていたなら、この国に来るかもしれない。


 だけど……夫人はため息を吐き、俯いてしまった。


 馬鹿げているわね。生きているはずがない。


 不意に磯の匂いが漂ってきて、驚いて顔を上げる。ウェイターが白い皿に盛られたエビのグリルを運んできた。


「どうぞ」


 皿がテーブルに置かれたので、夫人は眉根を寄せた。


「私、頼んでいないわ」


「あるお客様から、これをあなたにお出しするように言われました」


「なんですって?」


「見た目はとても綺麗で気さくな男性でしたが、ちょっと変わった方で。厨房を貸してくれとおっしゃって、このエビを彼自身が調理したあと、あなたに出すように、と。――なんでも恋人に頼まれてエビを買いに出て来たらしいのですが、買いすぎてしまったとか」


「その人はどこ?」


 夫人の鬼気迫る様子に圧倒され、ウェイターがのけ反る。


「ええと、もう行ってしまわれたので」


「どちらに向かった?」


「あちらに――ああ、まだ背中が見えます――あの背の高い男性です」


 セントクレア公爵夫人が席から立ち上がってそちらを見ると、美しい金色の髪が人混みの向こうに垣間見えた。


 ああ、あれは見間違いようもない……!


 彼の背中が見えなくなるまで、夫人はそのまま立ち尽くしていた。


 そうしてしばらくしてから優雅に着席して、涙を拭いながらウェイターにこう言ったのだった。


「これ、テイクアウトにして」


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