第29話 次の扉を開く鍵


 翌日はお仕事をお休みして、ふたりで買い物に行くことになった。


 このところリアムは造船関係の仕事を最優先で進めていたようなのだが、翻訳ミスが発覚したので、そちらはストップせざるをえない状況になっている。


 こういう時は焦っても仕方がないので、皇宮から原本が届いてから本格的に取り組もうということになった。


 それで彼が『前に君と約束していた件を実行しよう』と言い出した。オリヴィアは普段着を下町まで買いに出る予定だったので、リアムがそれに付き合ってくれると言う。


 オリヴィアは少し申し訳なく感じたものの、ありがたく彼の厚意を受けることにして、今に至る。


 公爵家の馬車を使うと身元がバレバレなので、少し通りを歩いて辻馬車を拾い、南のエリアに向かっているところだ。


 馬車の向かい側に腰かけているリアムを眺め、オリヴィアはつい笑みを零してしまった。


「どうかした?」


 オリヴィアが笑っているから釣られたのか、彼の口角も僅かに上がっている。


「こうして改めて見ると、今日のあなたの服装はとても新鮮だわ」


 出かける時も『わぁ……!』と思ったのだけれど、出発前になぜか色々な人が代わる代わる話しかけてきて(侍女のゲルダや、執事のハーバート、最近仲良くなった庭師のガスおじいさんなど)、『下町で迷子にならないようにね』とか『知らない男の人に声をかけられたら、すぐにリアム様の後ろに回って隠れるんだよ』とか『無事に帰ってきてね』とか『何かあった時のために、この笛を持っていくといい。攫われそうになったら、これを思い切り吹いて』とか『リアム様は絶対に彼女から目を離さないでください』とか――それでなんだか慌ただしくなって、彼の装いについて何か言う暇もなかったのだ。


 しまいには侍女のゲルダが『馬車を拾うところまでは見届けます』と言って屋敷の外まで付いてきたので、オリヴィアは彼女がいるあいだはずっとゲルダと楽しくお喋りしていた。だからリアムとふたりきりになったのは、馬車に乗ってからのことだ。


「町に溶け込めるように、いつもと違う感じにしてみた」


 彼が今日身に纏っているのは、なんというか庶民ぽい服である。生地も特別高級そうではないし、仕立ても凝っていない。


 ……これは誰かに借りたのか、もともと持っていたのか、どちらだろう。


 こちらが疑問に思っているのが伝わったのか、彼が肩をすくめてみせる。


「兄のものを借りた。あの人はしょっちゅうお忍びで町に出ていたから、この手のものをたくさん持っていて」


「そうでしたか」


 リアムが亡兄のことを落ち着いた声音で語っているのを聞き、感慨深い気持ちになる。


 オリヴィアがセントクレア公爵家にやってきた日、兄を亡くしたことについて、リアムはもっとナーバスだったように思う。つらすぎて、すべてを忘れてしまいたい、というような。


 兄にまつわるものすべてに対して向き合うのを避けていたから、結果的に良い思い出が封印されて、反動で、彼が生きていた時に苦労したことばかりが込み上げてきたのではないだろうか。


 マシューはとても頭が良く、対外的には完璧な貴族として振舞える人だったらしい。けれど身内にはとても寛大だった、とも聞いている。


 ――なんという複雑怪奇な人だろう。


 使用人にも慕われていたようだし、魅力的な人だったようだから、彼を『少数派』のひとことで括ってしまうのは、もったいなさすぎると思うのだ。


「お兄様は息抜きの仕方が上手だったのですね」


「うん……確かにそうだ。彼は上手に生きるコツをよく知っていた」


 リアムは何かを思い出すかのように、視線を窓の外に向けた。彼のアメジストのような瞳がキラキラと光を反射している。


 ……彼はどんなに安っぽい格好をしていても、特別な人だわ……オリヴィアはそんなことを思った。なんだか体の内側から輝いているみたいだもの。


 それはもしかすると、以前同じ服を身に纏っていた、兄のマシューも同様だったのかもしれない。


 リアムが『あれ?』というふうに微かに眉根を寄せる。


「なんでだろう……今、ふと思い出した。マシューが言っていた、特別な『鍵』の話」


「鍵、ですか?」


「彼はね、ゴールドの鍵を大切に隠し持っていたんだ」


「宝箱の鍵なのかしら」


「それがね、違う」


 リアムがくすりと笑みを漏らす。


「彼にとってはおまじないみたいなもので、その鍵があることで落ち着くんだって。――『次の扉を開く鍵』――彼はそう言っていた。最終的に逃げ道があると思い込むことで、日常でちょっと嫌なことがあっても、『これは次の扉を開けるまでの、ただの暇つぶし』って割り切れるんだって」


「面白いですね。本当におまじないみたい」


「一度だけ現物を見せてもらったことがある。古い木の道具箱に入れられていた。ピカピカのゴールドの鍵で――『いつもどこに置いているの?』と尋ねたら、『内緒』って言われたな。『とっておきの場所に隠してあるんだ』って」


「リアムさんも隠し場所を知らないんですか?」


「うん。兄は絶対に教えてくれなかった」


「隠し場所を知りたいですか?」


 尋ねると、リアムが穏やかな瞳でこちらを見つめ返した。


 外は良いお天気で、馬車の揺れはリズミカルでのどかだ。


 彼がこちらを見る時、アメジストの瞳に温かみが宿る。


 ――それは特別な瞬間――……


「僕は自分なりの鍵を持つ必要がある。マシューが持っていた、あの鍵ではなく」


「……次の扉を開く鍵?」


「そう――たぶん僕はね、それをもう見つけた」


 リアムが淡く笑む。


 どういう訳か彼の美しい瞳に絡め取られたオリヴィアは、心臓がドキリと音を立て、時間が止まったような錯覚を覚えた。



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