第14話 ツグミ
部屋を一通り見てから、ふたりでバルコニーに出た。
オリヴィアはとにかくセントクレア公爵邸の庭園が気に入ったらしい。バルコニーの手すりに両手をちょこんと載せ、眩しそうに景色を眺めおろして、しばらくのあいだじっとしていた。
彼女が『なんて素敵なのかしら』と言いたげに瞳を輝かせているのを見ると、こちらにもその浮き立つような感情が伝染する。
リアムは新しい土地に来たかのような心地で、手すりに肘をついて、陽光を反射する緑や、咲き乱れる花々を眺めた。
なんて美しい光景なのだろう。心からそう思った。
――ふと、隣からの視線を感じて、オリヴィアのほうを見る。
彼女がこちらの首のあたりを眺めていた。
「どうかした?」
「髪が……」
反射的にそう呟きを漏らし、ハッとした様子で口を閉ざす。
……なんだろう? 気になる。
「僕の髪が、何か?」
「知っている人の髪型に似ているものだから、気になって。――昔、故郷のバンクス帝国で会った人です」
こっそり眺めていたのが気まずかったらしく、少し早口になっている。そんな彼女を見て、リアムはくすりと笑みを漏らしてしまった。
リアムは手を首の後ろに回し、括ってある髪の房に触れた。その髪束を体の前に持ってくる。長さは鎖骨よりも下まである。
「君の故郷の男性は、短髪が多いと思っていた」
バンクス帝国には一度だけ行ったことがある。その記憶を呼び起こしながらリアムがそう言うと、オリヴィアが頷いてみせた。
「そうですね。バンクスに髪の長い男性はほとんどいません。……そういえば、あの人はイーデンス帝国から来たと言っていました」
「……そう」
リアムは手すりに肘をついたまま、体を彼女のほうに向けた。まじまじと彼女のあどけない顔を覗き込む。
「君とはどういう関係の人?」
「彼は画家で、私に絵を教えてくれました」
「家庭教師?」
「いえ、彼は仕事でしばらくうちに滞在していたんです。ワイズ伯爵の三番目の妻が絵の作成を依頼したので、それが完成するまでのあいだ。――当時私は九歳で、人生で一番の暗黒モードに突入していた」
オリヴィアはキュートに眉根を寄せ、口角を上げる。冗談めかしているけれど、彼女の中でまだ整理のついていない、わだかまりがあるようだった。
リアムはそれが気にはなったけれど、あえて尋ねはしなかった。出会ったばかりだし、まだそこまで踏み込んでいいものか分からなかったから。
それから別のことも引っかかった。――ワイズ伯爵の三番目の妻が絵の作成を依頼したので、画家は仕事でしばらく『うち』に滞在していた――
ということは、彼女は幼少期からワイズ伯爵家で暮らしていたのか?
大人になってから語学力を買われ、ワイズ伯爵家に雇われたのだと思っていたのだが、そうではない?
なんだか先の言い方だと、オリヴィア自身がワイズ伯爵家の令嬢みたいに感じられる。
考えを巡らせているあいだに、彼女がふたたび語り始めたので、違和感は泡が弾けるように意識の外に追いやられた。
「彼の髪は鮮やかな金色でした。艶やかで、とても綺麗だった。――あなたと同じね。髪型もそっくりで、彼も伸ばした髪を後ろでひとつに括っていたの」
オリヴィアがリアムの髪を眺める。画家のことを思い出しているのか、瞳がぼんやりしていた。
「瞳も菫色で、特徴があなたと似ていて」
「顔も?」
「いえ、顔は」
オリヴィアが綺麗に笑う。
「画家さんは線が細くて、大人しい感じの顔立ちでした。――あなたは顔がとても綺麗で、パッとその場を明るくするような華やかさがあるから、外見は似ていないの。でも……優しい雰囲気が似ている」
オリヴィアはさらりと「あなたは顔がとても綺麗」と言った。対面で、ここまでストレートに人を褒められるのは、ある意味すごいなと思う。おべっかを言っているふうでもなく、下心があるでもなく、思ったことをそのまま口にしている感じだった。
逆に言うと、ありのまま本心だから、照れずに言えるのかもしれない。一瞬の抵抗も見せずに他者を褒められる人は、詐欺師か正直者のどちらかだ。彼女はどう見ても詐欺師ではない。
「彼はいくつくらいの人?」
リアムが尋ねると、オリヴィアはうーん……と考え込んでから、小首を傾げた。
「実際の年齢は知らないんですけど、当時は二十歳すぎだったかも。あれきり会っていないので、詳しいことは分かりませんが」
「じゃあ今は四十歳くらいかな」
オリヴィアは当時九歳だと言っていたから、ふたりの出会いは今から十八年前ということになる。
「そうですね」
「画家がわざわざ絵を教えてくれたくらいだから、君には才能があったのかも」
リアムがそう言うと、オリヴィアがおかしそうに笑った。
「いえ、それが全然――私はツグミの絵を描いたんですけど、まったくツグミっぽくなかったわ。鳥だとかろうじて分かるくらい。でも彼はそれを褒めてくれました。『君が描いた鳥は、飛びたがっている。それが伝わる、いい絵だね』って。当時の私は挫折感でいっぱいで、ひとつも上手くいかないと思っていたから、褒められて嬉しかった。すごく救われたの」
「たぶんその画家は、お世辞で褒めたわけじゃないと思う」
「え?」
「君の描いたツグミは、本当に飛びたがっているように見えたんじゃないか? ――現にそれを描いた君は、飛び立った」
彼女はバンクス帝国を出て、パールバーグ国へ渡った。経緯は分からないが、彼女は飛んだのだ。
オリヴィアは不意を突かれた様子でこちらを見返した。風が強く吹いて、彼女の柔らかな赤毛を乱す。
――まるで永遠のような一瞬――……
兄がこの部屋で、大切な人と本を読んでいた、あの光景が脳裏に蘇る。あの幸せそうなひと時。今日のようによく晴れた日だった。
時は流れている。
兄はいなくなり、彼女がやって来た。
もしも今、自分がツグミの絵を描いて、その画家がそれを見たのなら、こう評するのかもしれない。
――このツグミは、決して手に入らないものを求めている、と。
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