エピローグ 街角の風の中

エピローグ 二五歳(五)

   エピローグ 二五歳(五)


「お世話になりました」

 二度と自殺を図ったりしないこと。辛くなったらすぐに病院に来ること。宮原こずえは、この二つを約束させられてクリニックを退院した。

 空が曇っていたから自殺を図った、その理由については結局分からず仕舞いだった。

 医師には、気圧が云々……不安が云々……と(彼がどこまで信じたかはともかく)それらしい理由を並べておいた。


 建物から出ると、(うっ)と思わず顔を顰めてしまうほどの眩しい太陽がこずえを出迎えた。

 一瞬で夢の世界から現実へと引き戻される。

 ――迎えは来なくていいから。

 両親には退院前にそう言っていた。平日というのもあったし、町の風景を見ながら一人でのんびりと歩きたかったから。

 とはいえ、あれだけ心配させておいて連絡一つ入れないのはあまりに薄情というもの。

 父親には、お昼休みの時間に電話をかけた。

「いま、公園でサンドイッチ食べてる」

『そうか』と言って、父親は息をついた。

『今日は暑いから日射病には気をつけろよ』

「うん」

『これからのことはゆっくり考えればいいさ』

 通話を終えたあと、こずえもひと息ついていた。

(まぁ、辞めるしかないよね)

 会社は現在休職扱いをしてくれているが、復帰したところでそう遠くないうちに退職を勧められるだろう。不動産業界はただでさえ激務だ。衝動的にオーバードーズをするような社員を抱えておきたくはないはず。仕事はそつなくこなしているが、替えがきかないほどの人材でもない。優秀な派遣社員を雇えば、宮原こずえが担当していた業務ぐらい回る。

 母親にはメッセージだけ送った。

《迷惑をかけてごめんなさい。これからはこんなこと絶対しないから》

(他人行儀なメッセージだな)

 こずえはくすりと笑った。

 メッセージしか送ってこない娘を母親はどう思うか。送ったあとで気になった。

 しかし、いまさら電話をかけるのも億劫だった。

(さすがに退院日に小言は言わないだろうけどさ)

 コンビニで買ったサンドイッチを食べ終え、袋をてのひらでくしゃくしゃに丸める。

 公園にごみ箱はなかったので、ビニール袋はバッグの中に入れておくことにした。

 バッグの口を閉めようとしたとき、医師から貰ったノートがふと目に留まった。

(二週間でノート一冊使い切っちゃった)

 こずえはなんとなくそれを手にしていた。

 中学時代の卒業文集を読んでいるような、小学生の頃に埋めたタイムカプセルを掘り返しているような、窓際の彼と過ごした日々がずいぶんと昔のことのように思える。

(窓際の彼、か)

 医師と話していたときは、当時のことを冒険小説のストーリーでも語るように熱っぽく語っていたのに、文字に起こしてみると、二人が過ごした日々は、なんだかどこにでも転がっている陳腐な話に思えた。

 友達が突然いなくなった。

 ようはそれだけの話だった。この話に強いて面白さを見出すなら、友達がわけも話さずにいなくなったことぐらい。

 それらしい理由はいくつも思いつくが、どれも当たっているようでどれも外れているような気がする。

 世の中には「空が曇っていたから」それだけで自殺未遂をする馬鹿もいるのだから、失踪の理由を求めたところで自分本位なこじつけになるのがオチだ。

 そもそも、八方美人姫は窓際の彼の謎めいた雰囲気に心を惹かれて、この物語を選んだのだ。

 はじめから別れのエピローグが決まっていたこの物語を。

 ノート一冊分の回顧録を書いてみても、あの頃の謎は結局謎のままだ。

 でも、それでいいんだ。

 改めてそう言い聞かせられるようになっただけでも、気が楽になった。ノートと向き合い続けていた時間も決して無駄ではなかった。

 たとえば、倉野正一が将来作家デビューしたときにつける予定のペンネームなんかも思い出した。

(気障ったらしい、でも彼らしいペンネームだった)

 思い出の残り香にくすくすしながら、こずえはもう一本電話をかけることにした。

『……こずえ?』

「はい。お久しぶりです」

 何年も連絡していなかったから繋がるかどうか、そこから不安だったが、彼女は二コール目で電話に出た。

『あんた、またいきなり電話かけてきたわね……』

「実はいま、こっちに帰ってきているんです」

 なるべく明るく、そして変に誤魔化さずに言った。

『クビ?』

「に、近いです」

 電話がかかってきた時点で、ママはある程度察していたようだ。

「――ようは、都会の風に負けちゃったってやつです」

『はじめからいずれこうなるだろうなとは思ってたけどね。京都は観光するところであって住む場所じゃないのよ』

(さっそく厳しいな)

 こずえはスマホを持ったまま肩を竦めた。

「『ピエロ』は変わらず☓☓ビルの三階でやってるんですか?」

『もちろんよ。どっかの根無し草ちゃんと違って、私の店はこの場所にしっかり根を下ろしてますから』

 根無し草。その通りで苦笑いしてしまう。

「――ところで、いまから店に行ってもいいですか?」

『いまから?』ママもさすがに訝しんだ。

『……あんた、変なトラブル持ち込んだりしないでしょうね?』

「しませんよ」どれだけ信用がないんだ。「ときには昔の話でも。いまそういう気持ちなんですよ」

『なに年寄り臭いこと言ってんのよ。あんたまだ二五でしょ?』

「はい。五〇歳の半分です」

『ふぅん。「知命」とでも言いたいわけ?』

 ママの返しは早かった。

「はい。――『人間、五〇にしてようやく自分の人生がなんたるかを知る』ってやつです」

『あんた、自分で言ってて悲しくならないの? 人生半人前って』

「事実なので」こずえの返事はケロッとしていた。「あと、自虐ネタは私の十八番ですよ?」

『まったく……。半人前どころかよちよち歩きもいいとこじゃない』

 小言と溜め息がセットで返ってきた。

『で、どうするの? 電話かけてきたってことは、うちでまた働く気あるわけ?』

「そのことも含めて、いまから伺います」

『じゃあ来るなら早くね。今日は金曜日だから』

 そう言うなり、ママはさっさと電話を切った。

(せめてなにか一言ぐらいあっても)

 電話を切られたあと、こずえはしばし呆然とした。

「おかえり」とか「元気にしてた?」とか優しい言葉を期待していたわけじゃないが、こうもブツリと電話を切られてしまうとは思わなかった。

 しかし、真っ黒な画面を見ているうちにだんだんおかしさが込み上げてきて、やがてこずえは「あはは」とお腹を抱えて笑い出していた。

「そっか。そうだ。今日は花金だ!」

 これはぼやぼやしていられないと、こずえは弾みをつけて立ち上がった。

「行くか」

 

 二五歳の夏が終わろうとしている。

 倉野正一は未だ世に出てきてはいない。

 宮原こずえをモデルにした小説は、あれから完成したのだろうか。

 彼はいまでも作家になる夢をちゃんと追いかけているのだろうか。

 あと五年以内に、あの気障なペンネームを町の書店で見かける日は果たして来るのだろうか。

 先のことなんか、まるで分からない。

 でもどうやら私は、

『僕の青春だったMさんへ』

 この献辞をいまも心のどこかで待っているらしい。

 もしいつか、あのときの冗談が本当のことになる日が来たら、そのときは、

 ――またな、宮原。

 あの嘘を少しは許してあげよう。

 そのうちこずえは、窓際の彼が一番好きだと言っていた、あの曲を口ずさんでいた。

「ねぇ あれからどうしているの」

 やがて彼女は、街角の風の中へと消えていった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

窓際の彼と八方美人姫 尾崎中夜 @negi3

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ