二〇歳(七)1
二〇歳(七)
学生食堂の二階、女子学生専用フロア《ゴシップ室》の向かいのカフェは陽当り良好の場所で、ミニチュアヤシの木のような観葉植物は外資系企業のオフィスに飾ってあっても違和感がないほど立派な代物である。いち大学のカフェにしてはなかなかお洒落で、趣のあるレトロな内装は、学生時代暇さえあれば喫茶店に入り浸っていた学長がずいぶん口を出したそうだ。
それなりに美味しいコーヒーが一杯二〇〇円、軽食に手作りサンドイッチの販売もしている。
しかし、こずえにとってこのお洒落なカフェは、ゴシップ室と同じぐらい嫌いな場所だった。
午前の講義が終わりカフェに行くと、秀樹は既に来ていた。
窓際の席で優雅にコーヒーを飲んでいる。カジュアルながらも値が張りそうなネイビーブルーのジャケットに、五月の陽光が柔らかに降り注いでいる。イギリス人の父親を持つ秀樹がカフェでコーヒーを飲んでいる姿は(好き嫌いはともかく)絵になる。まさに英国紳士。あるいはエリートサラリーマンのつかの間の休息。
こずえに気づいた秀樹は、「やぁ」と爽やかに手をあげた。こずえはぺこりと頭を下げ、「失礼します」と向かいの席に座った。
さり気なく周りを窺うと、
(二〇人いないか)
五〇人は悠に入るのに、今日も不自然なぐらいに毛並みのいい学生しかいない。マナーがいい(かつ容姿も悪くないカップル)に、司法試験の合格でも目指しているような、銀縁眼鏡が涼しげな秀才。――そして目の前の色男。
「こずえちゃん、カフェはもしかして初めて?」
「……一年の頃に何度か来たきりです」
「落ち着かないみたいだね」
「ここに来ると自分が場違いな感じがするんです」
「こずえちゃんならそんなことないよ」
「そうですかね?」
このカフェに入り浸っている自分など想像できない。想像したくもない。
「でも、こずえちゃんの言うことも少しは分かるかも。ここ、リピーターばかりでご新規さんは入り辛いところあるから」
(締め出してるのはあなた達でしょ!)
このカフェの上品さと特別感は、学内カースト上位層が中~下位層を締め出すために醸し出しているものだ。カフェに入ることを許されない、一階の共用フロアや向かいのゴシップ室でたむろしている中~下位層の彼らは、カフェに入り浸っている紳士淑女を「お高くとまった連中」と陰で悪く言っている。
「こずえちゃん、お昼はまだでしょ?」
「ええ。まだです」
言ったあとで(しまった)と思った。
「じゃあ、サンドイッチでも食べよう。玉子サンドでいい?」
「え、そんな」
「気にしないで。今日は僕が誘ったんだからさ。コーヒーの砂糖は?」
「……二つで」
「ミルクは?」
「一つで」
秀樹はニコッとして、「待ってて」とコーヒーとサンドイッチを買いに行った。
(……こういうところが苦手なんだよな)しみじみ思った。
秀樹はカウンターの男子学生と親しげに話している。その間、こずえは周りの視線に落ち着かず、小さくなっていた。
紳士淑女の彼らは露骨にじろじろ見てくるようなことはなかったが、それでも(誰?)(斎藤くんの彼女?)(あまり見ない顔)(新顔が増えるのはあまり好ましくないな)……。
こずえは無言の圧力を四方八方からひしひしと感じた。――《貴族のサロン》と皆が揶揄するわけだ。
「おまたせ。サンドイッチ、玉子の量をサービスしてくれたよ」
「ありがとうございます」
こずえが恭しくトレイを受け取ると、秀樹は「どういたしまして」と爽やかに言った。
「持つべきものはできた後輩だね」
「サークルのですか?」
「そ。今年入った一年」秀樹は得意げに答えた。
「彼、よく頑張ってるよ。学長にコーヒーをぶち撒けたときにはどうなることかと思ったけど、その後は上手くやってるみたい。仕事にも慣れてきたそうだし、見たところ周りとも溶け込めてるね。推薦した甲斐があったよ」
バイト代の高さや美味しいコーヒーが無料で飲めるのはもとより、M大学では《あのカフェ》で働いている、そのことが一種のステータスになる。表向きには「やる気と元気がある人なら大歓迎!」とあるが、実際の採用はほとんど紹介によるものだ。たとえば、斎藤秀樹のような学内でも顔の広い人物が一言頼めば、高倍率のバイトでも簡単に採用枠を確保できてしまう。不公平なシステムは、ボランティアサークルの入部選考とよく似ている。
「サンドイッチいただきます」
玉子が溢れんばかりのサンドイッチは、思わず頬が綻ぶほど美味しかった。
これが奢りでなかったらもっと素直に「美味しい!」と言えただろう。奢りのサンドイッチでは彼に借りをつくったようで、美味しさが少しぼやけてしまう。
「こうやってこずえちゃんと話すのいつぶりだろうね?」
「さぁ」
「サークルを辞めてからすっかり音沙汰なしだったから、君のこと気になってたんだ」
「あのときはご心配おかけしました」
「いいんだよ。元気そうでなにより」
いまはこうして爽やかに笑っているが、LINEの素っ気ない返信や何度か電話を無視されたことについて、彼は当時、本当のところはどう思っていたのだろうか。
「あと、突然辞めてすみませんでした」
「それこそ気にしないで。こずえちゃん、皆でワイワイってのが、元々あまり好きじゃなかったんでしょ?」
「ええ。入るときは上手くやっていけると思っていたんですけど」
「それでも周りに合わせていつもニコニコ頑張っていたから、ある日突然ガス欠を起こしちゃった。そんな感じだったよね?」
「おっしゃる通りです」
(あとは、あなたに好意を持たれたのが面倒臭かったからです)
――駄目ですよ。先輩には藤野先輩がいるじゃないですか。
――こずえちゃんが付き合ってくれるなら、沙織とは今日中にでも別れるよ。
「京都は楽しかったかい?」
こずえがサンドイッチを食べ終えたタイミングで、秀樹は旅行の話を持ち出した。
「はい。とても楽しかったです」
「どこ回ったの?」
「清水寺とか嵐山とか出町柳とか」指折りしながら答えた。
「いいところに行ったね。でも、どこに行っても観光客ばかりで大変だったでしょ?」
「私、初めて満員バスに乗りました」
にこやかに答えながらも、こずえは一切気を緩めなかった。そろそろ本題に近づいてきている。
「京都駅ではなんだかお邪魔しちゃったようだね」
探りのジャブには「そんなことないですよ」と笑顔のまま返した。
「私達のほうこそお忍び旅行の邪魔になりませんでしたか?」
「お忍び?」
青みがかった瞳がきょとんと丸くなる。
すぐに「いやいや」と首を振った。
「お忍びだなんて秘密めいたものじゃないよ。サークルのメンバーは全員知ってる」
「全員?」
「沙織がね」苦笑いを浮かべて秀樹は続ける。
「今年のゴールデンウィークは皆で北海道に行く予定だったのに、沙織が新入生歓迎コンパのとき『今年は秀樹くんを独り占めしたい!』って言っちゃって。酔ってたからてっきり冗談で言ったのかと思ったけど本気も本気。どうしても聞かなくってさ。
そういうわけで僕は北の海の幸を食べ損ねた。で、そのことをいま君に愚痴ってる」
そう締め括って、秀樹は肩を竦めた。肩の竦めかた一つ、ハーフの彼がやると所作が洗練されて見える。
「もちろん京都は京都でいいところだったよ。大阪や神戸にも行ったね」
「それなら三、四泊ぐらいですか?」
「そんなところだね」
どこか適当な調子で返ってきた。
(旅行の計画は藤野先輩に丸投げだったんだろうな)
「ところで、正一くんとは付き合ってるの?」
「いいえ。彼とはそういう仲じゃないです」
いつこの質問がきてもいいように構えていたこずえだったが、秀樹が下の名前を口にするとは思わなかった。
(やっぱり倉野のこと知ってた。しかも名前まで)
「付き合ってるわけでもないのに、二人きりで旅行、と」
「変ですか?」こずえは訊き返した。「男友達と旅行する女の子なんて世の中いくらでもいると思いますよ」
「たしかに」
「斎藤先輩はそのあたりのこと私よりもずっと詳しいですよね?」
「おや、これはもしかして自分の首を締めちゃったかな」
これしきの皮肉ではノーダメージだった。
「あと、倉野くんとは別に一緒に行ったわけじゃないですよ」
以前、大原敦子にした説明をそのまま使った。
秀樹は話の途中で余計な茶々など入れてこなかったので、説明に三分もかからなかった。
「この頃同じような質問ばかりされて正直うんざりしているんですよね」
こずえは一通り説明し終えたあと、疲れた表情をつくり、溜め息もそれらしくついてみせた。
「だから今日はあまり機嫌がよくなさそうなのか」
「そう見えますか?」
鬱憤晴らしに八つ当たり。秀樹に対して申し訳ないなという気持ちは微塵も湧かなかった。
「そろそろコーヒーのお代わりはどうだい?」
「結構です」今度ははっきりと断った。これ以上借りをつくってたまるか。
「それより今日は先輩に訊きたいことがあるんです」
「――倉野くんのことかい?」
秀樹はこれ以降、正一のことを下の名前では呼ばなかった。最初に「正一くん」と下の名前で言ったのは、こずえの反応を見るためだった。
「先輩は倉野くんのことを知ってるんですよね?」
「知ってるよ」
返事までに少し間があった。
「ただ、彼個人については全然知らない」
気になる言いかただった。
しかしいまは先を知りたい。
自分が持っている情報と斎藤秀樹が持っている情報。その二つがどう絡んでくるのか。
――同じ高校だよ。面識はなかったけど。
あのときの虚ろな表情を思うと、彼の過去を知るのが少し怖い。すべてを知ったあとで「訊かなきゃよかった」と後悔しそうな気もする。
でも覚悟はもうとっくに決めている。
「先輩と倉野は同じ高校なんですよね?」
こずえはストレートに切り込んだ。
「知ってたの?」秀樹は初めて素の反応を見せた。
その驚きは、こずえが既に情報を持っていたことに対してではなく、彼女が本気で正一のことを知ろうとしている、その熱意を感じ取ったからであった。
「正直、あまりいい話じゃないよ」
この不穏な前置きは、だからこそこずえに対する気遣い――最終確認であった。
「僕がもし彼の立場だったら、この話を君に知られたくないなって思う。そういう類の話だよ?」
「それでも」
こずえは姿勢を正した。
「分かったよ」
秀樹も話す覚悟を決めたようだった。
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