二〇歳(七)2

 ここからは一切、優男の甘い笑みはなしで話は進んでいった。

「僕と倉野くんが同じ高校の出身。そのことを知っているのなら話は早い。僕がその高校で生徒会長を務めていたって話は?」

「いつか飲み会の席で聞いたのを覚えてます」

「駅で会ったとき、倉野くんは僕のことを知らないって態度を取っていたけど、それはない。僕は彼の一つ上の先輩にあたるし、直接面識がなかったとしても、高校時代の生徒会長ぐらい普通はなんとなくでも覚えてるだろ?」

 そう。だから正一が秀樹のことを知っているのはなにもおかしくない。

 気になるのは、なぜ秀樹が正一のことを知っているのか、だ。

 いまの話の中にも一つ引っかかるものがあったが、些細なことなので一旦置いておく。

「ここからあまりよくない話になるよ」

 秀樹の話に集中するときだ。

「あれは僕がちょうど生徒会長を引退した頃だったかな。秋だった。

 校舎の屋上から飛び降りようとした男子生徒がいたんだ」

 飛び降り――。一瞬、息が詰まった。

「彼が飛び降りる前に先生達が駆けつけたから未遂に終わったけど……それなりに騒ぎにはなったね」

「それが倉野だったんですか?」

 膝を抓りながらでないと、声が震えてしまいそうだった。

「こういう話で嘘や冗談は言わないよ。

 こずえちゃんが彼のことをどう思っているかは知らない。

 でも、旅行のこともあるし、今日だって彼のことを訊きたいがために僕の誘いに応じてくれたわけだ。恋愛感情とか抜きにしても、それなりに好意はあるわけでしょ?」

「私は彼のこと、一人の大切な……大切な……」

 恋人は論外として、ただの友達ともなにか違うような。

 上手く言葉にできないのが、もどかしい。でも上手く言葉にしたくもない。

 なぜ?

 秀樹は、こずえに葛藤の気配を感じ取りながらも、それでもあえて自分の主張を続けた。

「人の交友関係に余計な口を出すのは主義に反するんだけど、それでも言わせてもらうよ。こずえちゃん、倉野くんとはあまり近づきすぎないほうがいい」

 秀樹の言葉に腹の底がカッと熱くなった。(余計なお世話だ!)と言い返す寸前だった。

 だがこずえは、秀樹の言葉にいやらしい他意がないことも分かっていた。

 本当に心配して言っているのだ。

「意地悪で言ってるわけじゃない。倉野くんが当時どんな悩みを抱えていたのか、クラスでどういう立ち位置にいたのかは知らないよ。

 でも彼が高校時代、校舎の屋上から飛び降りようとした。これは事実なんだ。

 思春期の迷走と言うには、事が大きかったよ。なんせ僕らの高校は県内有数の進学校だったから先生達も泡を食ってたし、あれ以来スクールカウンセラーの導入も検討されるようになった」

「それが、なんだって言うんですか。進学校だのスクールカウンセラーだの……」

「こずえちゃん、自殺未遂は癖になりやすいって話を聞いたことあるかな?」

「リストカットやオーバードーズのことでしょ」突っぱねるような言いかたになってしまった。

 その手の本は高校時代に何冊も読んだ。実際に行動に移さなかっただけで、知識は《普通の大学生》よりかはある。

「リストカットやオーバードーズならまだギリギリ自分の意思で止められるし、一線を越えたときでも助かる可能性はある。

 でも三階建てのビルや校舎の屋上から飛び降りたら、まず死ぬよね?」

「先輩がその手の話に詳しいとは思いませんでした」

 感情を抑えようとしすぎて、かえって棒読みみたいになった。

「多少は勉強するさ」

 秀樹は、藤野沙織のことをそれとなく仄めかしていた。

「そういう相手と長く一緒にいると、ときどき自分まで引っ張られそうになる。僕はそれが心配なんだ」

「心配ですか……」

 秀樹の言いたいことは分かる。これ以上近づくべきではないとの忠告も。

 ただ、彼が理路整然と話せば話すほど、白けていく自分もいた。

(この人はやっぱり私達と住んでいる世界が違う)

「斎藤先輩は、藤野先輩と別れるつもりなんですか?」

「そうだね」

 秀樹は潔く認めた。

「藤野先輩、いま色んなことでいっぱいいっぱいなんですよね?」

 こずえは相手が痛がることを分かっていて訊いた。

 私は本当に意地悪な性格をしている。自分でもときどき嫌になる。

「だからって事あるごとに命をチラつかせてこられたら、僕だって逃げたくなるよ」

 こずえの脳裏に、あの日、秀樹の腕にしがみついていた沙織の姿が浮かび、そして消えていった。

(旅行中、先輩は一度でも彼に抱かれたんだろうか……)

「沙織だってもう僕のことを好きかどうかも分かってないんじゃないかな。ただ、意地でしがみついているだけで」

 秀樹の言葉は事実であり、彼自身の願望でもあった。

「恋にせよ、友情にせよ、お互いもっと気楽な付き合いがしたいと思わない?」

 直接口にせずとも、彼の気持ちがもう新しい恋へと向かい始めているのは明らかだった。その一歩目が私なのか? それとも他にも彼女候補がいるのか――。

「こずえちゃん、僕のこと好きじゃないでしょ?」

 秀樹がそう言ったとき、昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。

 チャイムの間の悪さに、彼は少し顔を顰めたが、チャイムが鳴り終わると、すぐに気を取り直した。

「やっぱり大学だと時間に限りがあっていけないね。ゆっくり話すこともできやしない。本当はもっと楽しい話をするつもりだったんだけどな」

「そうですか」

「来月あたり食事に誘ってもいい?」

 五月中は卒論の下準備と本命企業の最終面接で忙しいとのことだ。どうでもいい情報だった。

「藤野先輩に悪いですからお断りします」

「別れたあとなら会ってくれるかい?」

 最低ですね、と言葉が出かけた。

 沙織に縛られているのが辛い、彼女のことをもう支えられそうにない、その気持ちは分かるし、少しは同情もする。

 しかし今日、秀樹と話していて再三思ったことがある。

 ――どうしてこういう人達が世の中を上手く渡っていけて、その裏で、倉野や藤野先輩、そして私みたいな人間がいつも割を食わされないといけないのか。

 羨望や僻みもあるが、それは純粋な疑問だった。

 決して分かり合えない相手のことをまじまじと見ていたら、日差しが一瞬、彼の顔を斜めに掠めた。

 そのとき彼は眩しそうに目を細めた。

「先輩は、窓際の席が似合わないですね」

 ふと思いついた言葉を口にしてから、こずえは静かに席を立った。

「窓際?」

(彼にはきっと分からないだろうな)

「コーヒーとサンドイッチご馳走様でした」

 こずえはお礼を言って、居心地の悪いカフェをあとにした。


 この日の斎藤秀樹との一幕は、こずえの心を著しくすり減らした。

 週末はほとんど寝たきりで、いくら寝ても眠気が取れなくて、正一からの連絡もやはりなかった。

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