第五章 僕の青春だったMさんへ

二〇歳(一四)1

   二〇歳(一四)


「いま奈良にいるの」

『は?』

 正一は、電話の声が音割れするほどこずえの話に驚いていた。

『奈良ってあの?』

 こずえは顔を顰めながらも、「そう。ナ・ラ・ランドです」と答えた。

『本当かよ?』

「ほんとだって。倉野も写真見たから電話かけてきたんでしょ?」

『あのときはてっきりノリで言ってたのかと思ったけど、まさか本当に行くとはなぁ……』

 正一は京都旅行のことを言っていた。

 彼は昨日のことのような口ぶりで言うが、こずえにはもうあの旅行は遠い昔のものだった。

「私自身、自分の行動力にびっくりしてるよ。おかげで貯金がなくなっちゃいそうだよ」

 こずえは売店からジャンプ台を眺めていた。

 三〇分後、あの橋の上からぴょーんと飛ぶのだ。高さは泣く子も黙る三〇メートル。

「遠くから見ている分にはそこまで高くなさそうだけどね」

『三〇メートルだぞ』正一は食い気味に言った。『こういうのはいざジャンプ台に立ったときに分かるものなんだよ』

「へー、飛んだことあるような口ぶりだね」

 からかうと、『んなわけあるか』と言われた。

『想像だよ、想像。作家志望なりに想像しているんだよ。橋の写真だけでぞっとするよ』

 校舎の屋上――。

 暗い面持ちでそこに立っている正一の姿が不意に浮かんだ。

 が、イメージはすぐに別のものに上書きされた。

 ――いまの正一くん見てると、マジでむかつくんだ。

 あの夜、茜の言葉はとても辛辣だった。

 しかし、本質を突いていたようにも思う。

 これまでは彼のことがそこまで見えていなかった。近すぎて。だが、一歩下がってみたいまなら分かる。真の芸術家云々は分からなくても、正一の考えかたは幼すぎる、と。

『――宮原?』

(言ってあげるべきなのかな)

 前期試験も終わり、もう八月。小説の進捗について正一はこの頃口にしなくなっていた。こずえも訊かなかった。彼を、もうそういう風に見ていないからかもしれない。

「倉野、鹿さんの糞ってチョコボールみたいだったよ」

『はぁ?』

「バンジー来る前に鹿公園――じゃない。奈良公園で鹿さんと遊んできたの」

『うん』

「触ってみるとゴシャゴシャってタワシみたいな毛並みでさ、そこら中に転がっている糞はチョコボールみたいで――」

『それは聞いたって。てか食品名を出すなよ、今後チョコボール食えなくなるじゃないか』

「あ、それもそっか」

 こずえは自分の不注意発言に笑った。

「でね、鹿さんの頭撫でながら、倉野のことをふと考えてたんだ」

『へぇ。どんなこと?』

「おっかなびっくり触ってそうだなって』

『かもしれないな』

 正一は素直に認めた。

「あと鹿せんべい食べたよ」

『食べたのかよ』

「くるみっぽい味がした」

『あれって人間が食べられるものなのか?』

「あんましよくないみたいだけどね」

『……ネットだと《米ぬか》って書いてあるぞ』

「《米ぬか》って、どんな味よ?」

『さぁ。……たしかにピンと来ないな』

「ま、食べたって言っても端のほうを軽く囓っただけなんだけどね」

『充分チャレンジャーだよ。――飛んだあとは、また京都を回ったりすんの?』

「ううん。奈良のホテルに泊まって、明日の昼には帰るよ」

 一泊二日の弾丸ツアー。

「凄いでしょ?」とこずえは得意げに言った。

『バンジー旅行か』

「そうそう。バンジーを飛ぶためだけにここまで来ました。帰ったらしっかり働かないとねぇ。懐がピンチなんでさぁ、へへへ」

『例のスナックか?』

「うん。帰ったらママさんに連絡するつもり。あんな派手なワンピース着ることはもうないだろうけど」

『あれか。あれはあれで結構似合ってたと思うけどな』

「ありがと。倉野にそう言ってもらえると照れちゃうなー」

『本当に似合ってたよ。……それにしても、凄いな』

「え?」

『バンジー飛びに奈良まで行ったり、スナックのバイトも始めてみようとか……なんていうか、いまの宮原は力いっぱい生きている感じがする』

 眩しい、と彼は言った。

『俺も色んなこと頑張らなきゃいけない気がする』

(いま、どんな顔で言っているんだろう)

 こずえは気になった。

 力強く顔を上げているようにも、思いつめた顔で俯いているようにも、どちらのイメージも浮かんだ。

『怪我には気をつけろよ』

「ちょっと最後に怖いこと言わないでよ。バンジーで怪我って、それイコール死じゃん」

『それもそうか』

「もう……――わ、もう二〇分前だし」

『電話、そろそろ切ったほうがいいな』

「ほんとだったら、ジャンプ台に立つまで喋っていたいんだけどね。現場から実況中継ってことで」

『なんだそれ』

「あー、急に緊張してきた。この緊張感あれに似てる。運動会で徒競走の順番待ちをしてる感じ」

『分かるようで分からないな』

「帰ったらまた会おうよ。なんか適当にお土産買ってくから。バンジーの恐怖もたっぷりお伝えするよ」

『――ほんとだったら、俺が飛ばなきゃ意味がないんだろうけどな』

 正一がポツリと言った。

「かもしんないね」

『いつか、自分で飛びに行くよ』

(いつかっていつ?)

 そう訊き返しそうになるのを堪えて、

「それがいいよ」とこずえは電話を切った。

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