二〇歳(一三)3

「ああいうのマジでやめてほしい!」

 店の外の喫煙所で、茜はまず吐き捨てるように言った。

「ごめん。服に臭いついちゃうかもしれないけど、タバコ吸ってもいい?」

「あ、どうぞ」

 サンキュ、と言って、彼女は慣れた手つきでマルボロに火をつけた。

 群青の夜空に煙が溶けてゆくのを見つめながら、チッと何度か舌打ちして、

「くだらなくて泣きそうだったよ」と言った。

「座長とUNICORNには悪いけど、『すばらしい日々』を聴いてたとき、最高にむかついてたから」

 こずえは(いい曲だな)と思いながら聴いていた。変にベタベタとしていない、どこかあっさりとした、でもずっと忘れられない相手を思っている、そんな前向きな別れの曲だと。

 最後のサビあたりから怪しくなっていた座長は歌い終わったあと、「いつかまた一緒に舞台やろうな」と涙ながらに言っていた。

 しかし茜は「それが嫌だっつうの!」と灰皿にタバコを押しつけた。

「あたしはもう二度と舞台になんか立たない。そのつもりですべてを出しきったのに、なにが『また一緒にやろう』だよ!」

『群青の夜の羅針盤』は、一人の女性が恋と夢に破れ、どこまでも堕ちてゆく破滅の物語だった。この公演を最後に舞台から去る、赤本茜という女優にこれほどぴったりな話もない。

 中学二年生で初めて舞台に立った日から――三〇歳まで――人生の半分以上を舞台に捧げてきた彼女だからこそ、見る者すべての心を震わせる一世一代の名演技だったと思う。カーテンコールのときに放心していた茜は、それこそ真っ白に燃え尽きたジョーのようだった。それがまた観客の脳裏に一人の女優の生き様を焼きつけた。

「ごめんね。いまからこずえちゃんに超愚痴るわ」

 そんな情熱的な生きかたを、赤本茜は自ら否定しようとしている。

 一人舞台の観客は一人。最後まで演じきっても拍手の一つも起こらない。

「一五年棒に振っちゃった」

 赤本茜の引退公演、その本当の名前は――『三流女優は去りゆく』


 初めて舞台に立ったのが一四歳。それからずっとお芝居に恋してきた。いまはもう笑い話だけど、大河ドラマに出るような女優になるのが夢だったんだよね。お父さん、大河ドラマとか時代劇好きだったからさ、あたしも一生懸命だった。

 でもお父さん、あたしがマジで言ってるとは思ってなかったみたい。高校を卒業したら女優ごっことは縁を切って、弁当屋を継ぐと思ってたみたいだからさ、一九のとき大喧嘩して家を飛び出しちゃった……。


「この下手くそ!」って台本で頭叩かれても、何度オーディションで落とされても、一人ぼっちでも、あの頃のあたしは一秒だって負けなかった。自分で選んだ道だもの。いつかチャンスが来るって。夢を見続けられた。


 お父さんが癌でいつ死んでもおかしくないって連絡が来たときも、稽古に穴空けるわけにはいかないからって意地でも帰らなかった。で、本番の舞台に立っている最中に死んじゃった。それでも帰らなかった。

 なのに、いまこの手にはなにも残ってない。結局東京で負けて、おめおめ地元に逃げ帰ってきた。引退公演は、自己満足でワイワイやってるだけの、チケット代が二〇〇〇円もないような、プロ意識の欠片もないしょぼい劇団。夢が終わったあと、三十路女は実家の冴えない弁当屋を継ぐしかないってわけ……。

 

 二五のときね、あたし映画に出たんだよ? こずえちゃんも聞いたことあるすっごく有名な映画。エキストラだったけど、これが結構目立つ通行人Aでさ、この映画がきっかけで夢みたいなチャンスも回ってきたの。大きな舞台のオーディションに呼ばれて最終審査まで残ったの。絶対モノにしてやるって、このチャンスを掴めれば、ずっと耐え続けてきた日々も報われるって……。

 でも、オーディションに受かったのは大手の事務所に所属していた子。分かってたんだけどな。表向きには誰にでもチャンスはあるって言っていても、コネがあるかないかって、この業界本当に大きいの。それを承知の上で、そのクソみたいな差を絶対に埋めてやるって、負けてたまるかって頑張ったんだけどね……。

 あのときオーディションに受かった子さ、今度の大河に出るんだよ。片や、あたしはもう実家の弁当屋を継ぐしかない。


 いまの正一くん見てるとマジでむかつくんだ。作家になるって夢みたいなこと言ってるくせに、いつまでもうだうだ能書きばかり垂れてちっとも書かないで、そりゃこれまで色々とあったんでしょうけど、メンタルもクソ弱いし、本当に作家になりたいんだったら、こんなとこでぬくぬく大学生やってちゃ駄目なんだよ。

 童貞? それは別にいいよ。あたしも今日はちょっと弄りすぎちゃったなって反省してる。でもさ、あの子の世界は狭すぎるよ。彼なりにいまそれを広げようとしているのは分かるよ。だけど、芸術家に本気でなろうとしているんだったら考えが甘すぎるよ。三〇までに作家になれたら? いやいや、悠長すぎだって。


 ……ああもう、やだな。あたしこそ最低最悪だ。自分の夢が終わったからって、正一くんに八つ当たりしてる。すっげーカッコ悪い。

 でも、あの子はこの町にいる限り絶対に作家になんかなれない。それだけは言いきれる。だからなんだって話なんだけど……悔しいじゃんかよ。あたしの夢は終わったってのに、周りに似たような夢見ている人間がいるとさ。

 変に懐かれてるけど本当は目障りなんだよ。なのに、バイトも今月いっぱいまではいるって……。


 こずえちゃん、なにも言わずにずっと話を聞いてくれたお礼に、お姉さんがいいこと教えてあげる。

 物事にはさ、なんでもピークってものがあるの。

 夢とか才能とか、人間関係にも。

 そういうキラキラしたものほど手放すタイミングが難しいの。

 でもね、自分はもう落ちる一方だって気づいたときに、ちゃんとそれと向き合って、手放すか、あるいは別の道を探すか。

 タイミングの見極めと決断。

 この二つをいつまでも先延ばしにしている人は、いつか痛い目を見るよ。赤本茜のようにね。


 最後に一つだけお願い聞いてくれる? あたし、今夜はもうこのまま帰るから、皆に言っといてもらえる? 「大女優は、二日酔いになるのが嫌で帰っちゃった」って。

 あは、つまんない台詞。こういうときに気の利いた台詞一つ言えないから、あたしは三流女優で終わっちゃったんだね。

 それじゃ、今度こそさようなら。

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