二〇歳(一二)2

「てか、通帳の残高がやばいの」

 こずえは気分を変えようとおどけた。

「子どもの頃から貯めてきたお小遣いやお年玉預金がついに一〇万切っちゃった」

「俺も結構やばい。よくよく冷静になって考えてみたら、実家で貰った三万使ってたら今月生活できなくなってたわ……」

「チェリーグッバイはまだしばらくはお預けだね」

「せめて二三までにはグッバイしときたいなぁ」

(あと二年だね)こずえはそれを胸の内だけで言った。

 M大を受けるまでに、正一には一年の空白期間があった。

 受験浪人、高校留年、自分探しの時間……。

 なにが理由であれ、軽々しい気持ちで人の過去に触れるべきではない。

 ――倉野くんが当時どんな悩みを抱えていたのか、クラスでどういう立ち位置にいたのかは知らないよ。

 でも彼が高校時代、校舎の屋上から飛び降りようとした。これは事実なんだ。

「三万か」

 正一はこずえのことを見ておらず、自分のてのひらをじっと見つめていた。

「マスかけどマスかけど、猶わが息子楽にならざり、ぢっと手を見る……なんてな」

(もし、宮原と会ってなかったら今頃マットで――)

 切なげな表情は、そう言っているように思えた。

「生活より性欲優先! いいねいいね。作家志望としても一皮剥けるかもよ?」

「ひっでー言いかた」

「倉野、その鬱々とした気持ちを小説にぶつけて頑張ってみなよ! 三〇までに作家になるんでしょ? 作家になれば、ソープだって行き放題だよ!」

「あのなぁ」

 こずえの励ましに正一はかえって肩を落とした。

「つーか俺、三〇まで童貞なのか?」

「いっそ生涯童貞貫くのもいいんじゃない?」

「嫌に決まってるだろ」

「ま、頑張りたまえ」

 こずえは話を雑にまとめた。

 いじけられても面倒だし、彼の童貞話にもそろそろ飽きてきた。

「そういえば、私ね」

 なので、こちらから話を変えることにした。

「この間、学食で同級生に蕎麦をぶっかけたんだ」

「はぁ?」

「京都のことでね――」

 こずえは一連のことを笑い話として正一に話したつもりだった。

 ところが彼は、こずえが話している間、一緒になって笑うことなく、彼女が話し終わる頃には、むしろ「……ややこしくなってきたな」と事態を悲観的に捉えるようになっていた。

「宮原がいくら否定したって、俺と一緒にいる限りこれからも噂され続けるぞ?」

「そんなのどうだっていい」

 こずえはきっぱりと答えた。

「周りには好き勝手言わせとけばいいよ。それとも倉野は、たかがこれぐらいのことで私から離れちゃうの?」

(我ながらえっぐい訊きかただね……)

 だが、本音だった。一時的といえ、自分から遠ざかろうとしていた正一への不満、抗議。そして、

「まだわたしを離さないでよ」

 いま彼がいなくなったら、自分はどうしていいか分からない。

 正一は平手打ちでもされたかのように、はっとした表情をしていた。

「私達いつかお互いを必要としなくなるときが来るかもしれないけど――でも、なにも言わずにいなくなったりはしないで」

 きつく言葉で責めるよりも、相手の目を真っ直ぐ見つめて、本当の気持ちを伝えるほうがよほど難しい。

 だからこそ尊い。

「悪かったよ。本当に悪かった」

 正一もこれには堪えていた。――彼には彼の事情があったとはいえ。

「なにも言わずにいなくなったりしないって、いま約束するよ。……だから、そんな風に俺を見ないでくれ」

「ごめん、急に。久々に会ったんだから、もっと楽しい話がしたかったのに……つい」

 場がさらにしんみりしてしまった。

 近頃、自分は感情のコントロールが下手になってきている気がする。

 冗談っぽく「電話にも出ないでさー」とブチブチ言うぐらいで空白期間の穴埋めを済ませるつもりだったのに、話しているうちに突然スイッチが入って彼を辛辣に責めてしまった。

「倉野、なんか楽しい話ない?」

 そしてこの話の振りかたも――自分が普段軽蔑している――面倒臭い女そのものだった。

(ああもう、今夜は駄目っぽいな)

 こずえが自己嫌悪のドツボにハマっていく中、

「なら、これはどうかな?」

 正一が不意にあるモノを出してきた。

「こういう空気になってからこれ渡すの、ちょっといやらしい気もするけど、元々ここ数日中に連絡するつもりではいたんだ。……よかったら今度一緒に観に行かないか?」


 劇団エゴトリアム 赤本茜引退公演『群青の夜の羅針盤』


 正一がこずえに渡したそれは、舞台のチケットだった。

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