二〇歳(一二)1
二〇歳(一二)
とんだ再会を果たした二人は、はじめこそ気まずい思いでいたものの、お互いの事情が呑み込めてくるにつれてポツポツ口数が増えてきた。
九時過ぎのファミレス、客はまばらだった。
「……つまり宮原は大事な初めてを名前も知らないような男と済ませるつもりだった、と」
こずえもわざと溜め息をついてみせた。
「つまり倉野は偽名を使っている泡姫さんに筆下ろしをしてもらう予定だった、と」
彼女の返しに正一は「あのな」と顔を顰めた。
「……お前はもう少し言いかたってものを考えろよ」
周りを気にして小声だった。
「はしたない? これでもやんわり表現なんだけど」
「そうだけどさ」
「大丈夫だって。皆、自分達のお喋りに夢中だから」
店内にはそれこそこずえや正一達と似たような若い男女が他にも何組かいる。彼らは顔を寄せ合い、二人だけの言葉で囁き合い、そして甘い笑みを浮かべている。あとは仕事帰りのサラリーマンが顔色の悪さに似合わず、ステーキをもりもり食べているぐらい。
こずえ達の注文は、脂っこいフライドポテトにドリンクバーと、最低限のものだった。
「にしても、今夜は凄い格好してるな」
正一はこずえの赤いワンピースをチラッと見て言った。
「そういう倉野こそ怪しさバリバリ。真っ黒くろすけだよ」
こずえはポテトにケチャップをたっぷりとつけて口に運ぶ。
「いちいち意地悪く返すなよ。会話が続かないじゃないか」
「ごめんごめん。私、今日バイトの面接だったんだ」
「バイト? おいおい、まさか――」
「誤解しないで」
身を乗り出しかけた正一をやんわり押し返した。
「スナックのバイトだよ。この格好は、ちょっと気合い入れただけ」
「スナックってそういう格好で人前に出るのか……?」
「変?」
正一は首を振った。
「……でも、目のやり場に困る」
膝丈やや短めのAラインワンピースからは、決して豊満ではないが、それでも薄い布越しにBカップの膨らみと、ほっそりとした腰のくびれはしっかりと見て取れる。普段ラフなシャツとジーパンの女友達がこうも大胆なお洒落をしたら、奥手な正一じゃなくても多少は赤くなるだろう。
こずえは目を逸らしてばかりいる正一をからかってみたくなった。
耳元に口を寄せてそっと囁いてみた。「……お兄さん、いまならサービスしてあげる」
ますます顔を赤くして、「おい!」と怒るかと思っていた。初心な反応を期待していたのだが、振り向いた正一は眉根を寄せていた。
「冗談でも、宮原の口からそういう言葉聞きたくない」
「ごめん」こずえはすぐに謝った。
調子に乗りすぎた。
「……謝らなくたっていいよ」
「ううん。いまのは倉野に失礼だった」
「いいんだって」彼はきっぱり言った。
「俺だってソープで初めてをしようとしていたわけだし、人のことをとやかく言う資格はないよ。……別に俺達、恋人じゃないんだから」
「そうだね」こずえはやっと笑えた。
「でも、倉野もどうして急にチェリーグッバイしようと思ったの?」
コーヒーに口をつけていた正一は、ぶっと噴いた。
「あーあー、汚いなぁ」
噴きこぼれたコーヒーを見て、こずえはニヤついた。
「だから変な言いかたするなっての!」
「我ながら上手い言いかただと思ったんだけどな」
「頼むから今後は、俺がモノを口に含んでいるときに、そういうこと言わないでくれ」
正一はおしぼりでテーブルを拭く傍ら、口許もごしごし拭っていた。
「はいはい」こずえの返事は適当だった。
テーブルも口許も綺麗にしてから、
「俺も後生大事にとっておくものでもないと思ったんだよ」
正一は脱童貞の経緯について話し始めた。もちろん声のボリュームは控えめで。
「女の子のそれには価値があっても、男がいつまでも童貞って情けない話じゃないか」
「そう?」
価値あるそれをさっさと捨てようとしていただけに、正一の童貞観はいま一つピンと来なかった。
「男は気にするんだよ」正一はあくまで言い張る。
「だけど、俺みたいな男に恋人ができるとは到底思えないし。自分の人生一つで手いっぱいなんだ。……となると、ここらで捨てておかないと、いつまでも女体の神秘を知らないまま魔法使いになっちまう」
「ああ、ネットとかであるやつだね。三〇超えても童貞だと魔法使いになっちゃうってやつ」
あはは、と笑いながら言うと、
「いちいち声がでけーよ」正一はしっと指を立てた。
「おとと」こずえは口を噤む。
軽躁に加えて今夜はアルコールもほどよく回っているから、やたら陽気でいけない。
「あと、実家に帰ったときに三万貰ったんだ」
「里帰りで貰った三万円をソープに使うなんてなかなかの親不孝だね」
こずえの指摘に、「まったくだな」と正一は自虐めいた笑みを浮かべた。
「あれ、実家?」こずえは遅れて反応した。
「しばらく帰る予定なかったんじゃないの?」
「おっと」どうやら口が滑ったようだった。
「……俺にも色々と事情ってものがあるんだ」
「ふぅん」
「これからのこととか、そんなことを話してきた」
「ご両親と?」
「ああ」
「これからって卒業後のこと?」
まだ二年でしょ、と言いかけて、こずえは思い直した。
(そっか。
「そんなとこかな……」
「大学出たら地元で就職するの?」
「どうだろう」
はぐらかしている感じはなかった。本当に分からない、彼はどこか苦々しい表情で首を捻っている。
「宮原こそ地元を出て就職したりしないの?」
「私?」
「京都に住んでみたいとか、そういうこと密かに考えているんじゃないかなって、ふと思ったんだ」
「考えたことなかったなぁ」
正一に言われてみて、こずえは京都で暮らしている自分を想像してみた。
鴨川沿いを散歩する自分、河原町通りの人の多さに参っている自分、観光地巡りはたぶん一ヶ月ぐらいで飽きる……。
「あまり現実的じゃないね」こずえはあっさり言った。
「そうか?」
「観光と移住じゃ話が全然違ってくると思う。地元を出て自分一人で生きていく。カッコいい生きかただけど、私にそこまでバイタリティがあるとは思えないな。この町でのんびり生きていくのが性にあってるよ」
「ね?」と同意を求めると、やがて彼も「それもそうか」と頷いた。
「ところで、少し痩せたか?」
「そういう倉野こそ痩せたんじゃない?」
唐突に訊かれたので、ついそのまま返してしまった。
「俺は元々痩せ気味だよ」
正一は自分のことは笑って誤魔化した。
「京都旅行の旅疲れがなかなか抜けなくて寝込んでた」
(旅疲れ、ね)
自分と似たような嘘をついている彼に、こずえは本当のことを訊きたかった。
――校舎の屋上から飛び降りようとした男子生徒がいたんだ。
「私も旅疲れで五月はほとんどバタンキューだった」
こずえは曖昧な笑みを浮かべながら言った。
「なるほど」
彼もまた曖昧な笑みを返してきた。
「結構はしゃいでたしな。俺よりよっぽど疲れただろうよ」
「旅行中化け狐にでも呪われたのかな」
「京都の人に怒られるぞ」
お互いがお互いを優しく欺き合う。二人の間でこんな空々しいやりとりが交わされたのは初めてかもしれない。
(でも、これでいいんだ)
沙織の話をするのもよしておいた。
旅先での飛び込み自殺。
いまは知らなかったとしても、大学に来れば、いずれ誰かが彼に余計なことを吹き込むだろう。そのときそばにいてあげたらいい。
今度は一人にさせない。
それまでは余計なことを言う必要もない。
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