二〇歳(11)3
面接が終わりビルを出たのは四時半だった。
(最後あたりはほとんど雑談だったな)
久しぶりに人と喋った、そんな実感が改めて胸をくすぐり、うーんと背伸びをしたら気持ちがよかった。
四時半。夕食には少し早い時間帯だが、交通費という名目でお金を五〇〇〇円もいただいてしまった。「学生さん、たまにはいいものでも食べなさいな」ママからのそういうメッセージだと解釈して、こずえはさっそく《飲み放題込みで五〇〇〇円の焼肉店》が近場にないかと探し歩いた。
(うーん、美味しそう)
いまどき女性の一人焼肉なんてそう珍しいものでもないだろうが、それでも従業員からすれば、膝丈やや短めのワンピースを着た若い女性が黙々と肉を焼き続けている姿は異様なのだろう。従業員だけでない。五時過ぎからポツポツ増え始めてきたお客も、店の入口から近い席で肉を焼いているこずえを思わず「え?」と二度見していた。
新品同様のワンピースに焼肉の臭いがつくのも構わずに、こずえは肉を焼き続ける。肉をぱくついているだけではいささか健康的すぎる気がして――せっかくの飲み放題込みなのだから――今日はとことんいけるところまでいこうと途中からビールもじゃんじゃん頼み出した。
焼肉、白米、ビール……とローテーションを回していく中で、こずえは「処女」についてふと考えてみた。
まず前提として、自分は決してガードが堅いというわけではない。
これまでそういうきっかけがなかっただけのことで、「婚前交渉は一切しません」なんて言うつもりはないし、「これまで一度も男性と付き合ったことないの?」と訊かれたら――実はそうでもない。
中学三年生のとき、一つ下の後輩に告白されて付き合ったことがある。二年生の頃から急にモテ始めて以来、周りの急な変化についていけず、告白はすべて断り続けていたのに、どうしてそれまで面識さえなかった後輩の男の子と付き合う気になったのか、未だによく分からない。
あの頃はまだ捻くれ出す前だったので(あ、この人いいかも)と思ったとき、ちょっと浮かれたりもしたし、学校から手を繋いで帰ったことも何度かある。
もっとも、彼とは一ヶ月で別れたが。
中学生の頃の話なのでなにからなにまで覚えているわけではない。ただ、相手のことを嫌いになったとか喧嘩別れだったとか、そういう愁嘆場を演じた記憶もない。おそらく《高校受験》を理由に、宮原こずえから自然消滅へと持っていったのだろう。
そのときの短い付き合いで学んだことが一つある。どうやら自分は「恋だ」「愛だ」の前に、他人との長期的な人間関係を構築すること自体できないタイプの人間なのだということ。
好きな人と愛のある初体験。それはとても素敵なことだろう。信頼できる相手と身体だけでなく心でも繋がる。大いに結構。
(私はそういうの、まどろっこしいかな)
思い立ったが吉日ではないが、捨てるなら捨てるで、なんなら今夜あたりでもいいかと、こずえはビールを片手に先ほどから男性向けのマッチングサイト記事に目を通していた。
――素人女子大生とタダでやれました――エッチなセフレを探せ――○○県の人妻、驚異の騎乗位……などなど。
(やることしか頭にないんだな)
扇情的なエロ画像やIQの低そうな(でも面白い!)文章に対して、特に嫌悪感を抱くことはなかった。嫌悪や軽蔑どころか(男の人ってここまでしてやりたいもんなんだな)と、彼らの欲望への忠実さに感心したぐらいだ。
(この記事こそ絶対業者が書いてるやつだって!)
下半身で書いたようなアングラ記事を夢中で読んでいたら、突然「ん」と咳払いが降ってきた。
顔を上げると、従業員のおばさんが無愛想な顔で立っていた。
「デザートの杏仁豆腐です」
彼女はデザートの皿を「ガチン!」と乱暴に置き、さっさとテーブルから離れていった。
(なに怒ってんだろ?)
彼女の後ろ姿を不思議に思いながら、再びテーブルに目を向けたとき、こずえは「あ!」と声をあげた。
丸いお尻を突き出している熟女の画像が、スマホの画面いっぱいに映っていた。
「あちゃー」
焼肉屋を出たあと、こずえはコンビニでブレスケアとコンドームを買った。
ほろ酔い顔に、大人女子のワンピース、息エチケット、なにより避妊具。
会計のとき、こずえがレジに並べたやる気満々セットに、学生アルバイトくんは面食らっていた。商品とこずえの顔を見比べ、それからはもうすっかり赤くなってしまい、会計の間、ずっと客の顔を見ないようにしていた。
「ねーちゃん、えらく気合い入ってんなぁ」
コンビニの軒下でブレスケアを噛んでいたら、脂ぎった顔の中年男が話しかけてきた。
「いまから彼とこれかい?」
親指と人差し指でつくった輪っかに指を抜き差ししながら、男はねっとりとした口調で言った。
好色めいた目に、加齢臭混じりの汗の臭い……。
普段なら相手にしたくない男でも、今宵のこずえはアルコールで頭がふわふわしている。元気よく敬礼していた。
「はい。処女を卒業する予定なので!」
「おお、そいつはいいこった。おじさんがあと一〇年若かったらな」
「二〇年の間違いでしょ?」
「おっと、これは失礼」
あはは、と笑い合い、それから少し下品な話をして彼と別れた。別れ際に彼は栄養ドリンクをくれた。
ブレスケアでスースーしている口内に栄養ドリンクの味は顔を顰めてしまうほど合わなかったが、いくらか頭がしゃっきりしてきた。
しゃっきりしてきたところで、こずえは大人の飲み屋街へと移動を始めた。
八時過ぎ。どこの店も客の入りが多くなってくる時間帯だ。既にできあがっている人もいれば、これからできあがる予定の人も、風俗のキャッチに声をかけられた男性は(参ったな)と首筋を掻きながらも顔は満更でもない。仕事帰りのサラリーマンだったり童顔の学生だったり、革のジャケットでアウトローを気取っているおじさんだったり……。
タバコ屋のシャッターにもたれかかりながら、こずえは途切れることのない人の流れを見ていた。
将来彼氏ができて、いざそういう場面になったとき、ワンナイトラブで処女を喪失したことに、自分は罪悪感を覚えたりするのだろうか。
赤提灯を見ながらこずえはぼんやり思った。
(いや、先のことはどうでもいいや)
いまはとにかく身を軽くしたかった。
自棄になっていると言えばそうかもしれない。
けれど、よくよく考えてみたらいまどき処女なんて後生大事に取っておくものでもないと、こずえは『ピエロ』のママと話しているうちにそのことを思うようになっていた。
(路上売春はどう考えてもヤバいけど、かと言ってピチピチ女子大生の処女がタダってのもなぁ)
性の逸脱について頭を悩ませていたとき、こずえの目がふと黒パーカーの男に向いた。
フードつきの黒いパーカーにサングラスと、どう見ても怪しい格好の青年は、先ほどからピンク色の外装がケバケバしい店の前で行ったり来たりを繰り返していた。
《ドスケベ天国》ド直球のソープだった。
行ったり来たりを繰り返しているパーカー男が、こずえはだんだん面白くなってきた。そのうちフードまで被り出すんじゃないかと思ったら、想像だけで笑えてきた。
金銭云々は一旦置いといて、とにかく彼に話しかけてみようと思ったこずえは、タバコ屋のシャッターから離れた。
ワンピースに焼肉屋の臭いを染みつかせている女子大生が、ソープ店の前で悩んでいる青年のもとへと真っ直ぐ向かってゆく。
高揚感は一歩ずつ高まってゆき、彼のパーカーをちょいちょいと引いたときも、怖いという感情は一切なかった。
「……あの、よかったら静かなバーでお話ししませんか?」
名前を訊かれたら『ナナ』と答えよう――最高に愉快な気持ちだった。
ところがパーカーの彼が振り向いた瞬間、こずえの表情は「あ!」と一瞬にして凍りついた。
彼もまた声をかけてきたこずえに「あ!」と驚きの声をあげた。
そして二人は、つかの間お互いのことを見つめ合った。
(久しぶりに会ったかと思えば……これだ)
「ナナです!」とこずえは明るく名乗ってみたが、
「……エミール・ゾラかよ」
いまさら無理があった。
「なにやってんだ?」
そして彼も観念してサングラスを外したのだった。
「そういう倉野こそ、ここで《ナニ》をするところだったの?」
質問に質問を返したところで、なにも言い逃れできないことは分かっている。分かってはいるのだが、
《ナナです!》
《ドスケベ天国》
この状況はお互い気まずかった。
「とりあえず移動しよっか」
パーカーの袖を掴んでこずえは言った。
「話はファミレスで訊くからさ」
「それはお互い様だろ」
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