二〇歳(11)2

 裏の事務所は必要最低限のものしかなかった。テーブルとパイプ椅子が数脚。デスクトップ型のパソコンが一台。あとはロッカー。

「おまたせ」

 きょろきょろ室内を見回していたら、着替えを済ませたママが入室してきた。

(うわー、着物だ……)

 こずえは思わず息を呑む。

 濃い紫の、見るからに上等な着物――これはたしかにスナックのママだ。

 先ほどまでだらしなく頬杖をついていたおばさんと同一人物とは思えない。

 うっすらと上品な化粧に、鼻先で漂う仄かな甘い香り……。

 頭が一瞬くらっとしかけた。

「驚いた?」

 ママはこずえの反応を面白がっていた。

「オンオフの切り替えはしっかりする。うちの店のモットーよ。アルバイトの子に着物とか背中の開いたドレスを着ろとは言わないけど、お客さんの前に出るときは完璧な女を演じてもらうからね」

 ママにとってこの着物は戦闘用ユニフォームらしい。しかし着るもの一つでこんなにも変わるものなのか。

「私の隣で携帯弄っていた子も店に出るときはなかなかのものよ。お化粧ばっちり決めて見違えるほど綺麗になるんだから」

「――あ、なるほど」

「なに?」

「もしかしてこの店の名前……岡村孝子の『ピエロ』からですか?」

「よく知ってるわね」こずえを見る目が初めて変わった。「あんた何歳よ」

「二〇歳です」

「年代全然違うでしょ?」

「大学の先輩が以前カラオケで歌っていたので……」

「ふぅん。その子、難儀な恋をしてたのね」

 好きな男を振り向かせたくてあれこれ頑張ってみるけど報われない、滑稽な努力ばかり続けている自分をピエロになぞらえたラブソング。一年生の頃、新入生歓迎コンパの二次会で沙織がこの曲を歌っていたのを、こずえは覚えていた。初めて聴いたとき、意味深な選曲だなと思ったものだが、意味深どころか彼女の『ピエロ』は、オドレイ・トトゥの『愛してる、愛してない…』よりもよっぽどストレートなメッセージの主張だった。

「あんたもずいぶんめかし込んできたみたいね。面接が終わったら、そのままラテンダンス教室にでも行くつもり?」

「ちょっとはりきりすぎちゃいました」

 こずえははにかみながら言った。

 Aラインの赤色ワンピースは膝丈もやや短め。今日の面接に備えてクローゼットに仕舞いっぱなしだったものを引っ張り出してきたが、子どもっぽい自分にはやはりセクシーすぎる服だと着てみて思った。

(これからはこういうのを着る機会も増えるんだろうな)と大学に入学したばかりの頃に買ったはいいものの、両親は娘が入学そうそう変な男に引っかかったのではないかと(特に父親が)びっくりしていたし、たしかに冷静になってみると、こんなラテンダンス教室にでも行けそうな派手な格好で大学に行けるものか。

 なので、今日が人前での初披露である。

「その服、ほとんど着たことないでしょ?」

「やっぱり分かります?」さっそく見破られた。

「七五三みたいよ。でも、そのちぐはぐな感じ面白いわ」

「ワンピースって心許ない服なんだなぁって改めて思いました」

「綺麗な服ってのは、着るほうにも勇気がいるものだからね」

 そう考えると、あの容姿で花柄ワンピースを得意げに着ているボンレス敦子は、実は凄いのかもしれない。

 ――マジありえないから! あーもう、全然落ちないんだけど!

 あのときはこっちも頭に血が上っていたから、「知るか!」とそのまま頬を引っ叩きにいったが、お気に入りの服にぶっかけ蕎麦はやりすぎだったかもしれない……。

「改めてお名前と志望動機を聞かせてちょうだい」

「はい」

 こずえは居住まいを正した。

「M大学二年、宮原こずえです。志望動機は二つ。時給が高いのと社会勉強のためです」

「素直でよろしい」

 ママはこずえの簡潔な回答に頷き、その上でこう続けた。

「時給が高い、つまり大変な仕事だってことはちゃんと分かっているのね?」

「そういうこと、なんですよね?」

「そこは嘘でも『はい』って言いなさいよ」

「すみません」

「まぁいいわ。変な自信家よりは。――ときどきいるのよ。ちょっと見てくれがいいとそれだけでもう受かった気でいる子。

 とんでもない。うちはちょいブスでも気立てがいい子を採用するから。あんまり綺麗すぎる子は、客とトラブルも起こしがちだし」

「ストーカーですか?」

「あとは不倫」

 穏やかじゃない言葉が出てきて、こずえは目をぱちくりさせた。

「自制心がない子や頭が軽い子は夜の世界にあっさり呑み込まれちゃうの。

 だからもし綺麗な顔や女の武器で商売がしたいんだったら、うちはやめといたほうがいいわよ。なんなら別の業界を紹介してあげようか? このビルから一〇〇メートルもない場所にね。……あんたはどう? そっち系は興味ない?」

 彼女は蠱惑的な眼差しと流れるような話術でこずえをからかっていた。

 しかしこずえにこれ系のからかいはまったく効かない。

 なんせ普段自分が言うようなことだ。

「私、クレープ屋はあまり向かないと思います」

 こずえの回答にママは笑った。

「面白いこと言うね、あんた」

「滑らなくてよかったです」

「いまの返しは合格点あげるわ。趣味や特技はある?」

「これといった特技はないですけど、趣味は読書と映画鑑賞です」

「いいわね。うちのお客は教養あるおじ様がメインだからそういう落ち着いた趣味は加点要素よ。――好きな映画は?」

「ウディ・アレンの『アニー・ホール』です」

「なるほどね……。通りでおかしな軽口ばかり叩くわけか」

 いつか正一にも似たような反応をされたことがある。

「いやぁ」

 褒められていないのはたしかだった。

 ただ、今日のトークはまずまずキレがある。軽躁もこういったお喋りの場では意外と役に立つものだ。

「あとはそうね。うちの店、ビートルズと吉田拓郎は必須よ。常連さんがよくカラオケで歌ったりするし、あんたカラオケとか振られても大丈夫?」

「たぶん大丈夫だと思います。上手い下手はともかく――『今日までそして明日から』は歌えます。あと、これは中島みゆきからの提供曲ですけど『永遠の嘘をついてくれ』あたりも」

「ほんと何歳よ……」

「色々と事情があって」こずえは肩を竦めた。

 灰色の高校時代がこういう場で活きるとは思ってもみなかった。

「じゃあ、最後にちょっと立ってみてくれる?」

「はい」

 こずえは大人しくその場で起立した。

(なんだかんだでスタイルも見るのかな……)

 気をつけの姿勢を取っている間、こずえは落ち着かなかった。出荷前の果物にでもなったような気分だった。

「ふぅん。ああ、そのままでいいから」

 そうは言われても、後ろにまで立たれたらますます果物気分だ。

「ちょっと失礼」

「ひゃっ!」

 しかもお尻まで触られた。

 突然のボディタッチには、さすがのこずえもびっくりして振り返った。

「あらら、不思議ちゃんも意外と可愛い反応するのね」

「こ、このお店、お触りありなんですか?」

 赤い顔でワンピースのお尻を押さえているこずえに、

「なしなしよ」ママははっきりと答えた。「そんな客、表に叩き出すわよ」

「ってことは、ママがレ――」

「あんたをいま叩き出そうか?」

 こずえはぶるぶると首を振った。

 しかし、からかいでいきなりお尻を触られてはこっちだってびっくりする。

「知っておいてほしかったの」

 ママはこずえの胸中を察した上で言った。

「うちのお店はたしかに上品なおじ様が多いわ。でもね、見かけは紳士でも本当はこういうことがしたくて堪らないのよ。特に、あんたみたいな可愛らしいお嬢さんは男の劣情を煽るの」

「劣情ですか……」

「私、これでも結構あんたのこと気に入ってるのよ? 面白いこと言えるし、愛想もまずまず。客のあしらいかたもすぐ覚えると思う。

 でもねぇ、地に足がついてない感じがするのよ」

 言われて足元を見た。「足ついてませんか?」

「ついてないわね。自分でも分かってるでしょ?」

「薄々は……」そりゃもうはっきりと!

「あんた、いまのままだと二〇年後も惑ってばかりいそうよ」

「四〇は……不惑でしたっけ?」

「そう。二〇の小娘には先のことに思えるかもしれないけど、二〇はもう立派な大人よ。

 だから事前に、現実ってものをちょっと教えといてあげようかなってね」

 つまり、いまのはほんの挨拶。イニシエーション・セクハラというわけか。

「ちなみに処女?」

「はい?」

「さっきの反応いままでと違って演技っぽくなかったから。あれは素の反応?」

「えっと……」

 恋人の有無ぐらいは訊かれるだろうと想定してきたが、まさか面接の場で処女かどうかを訊かれるとは思わなかった。

「この手の質問はNG?」

 彼女は明らかに小娘の初々しい反応を楽しんでいた。

「処女ですけど問題ありますか?」

 この質問にだけはこずえも少しムキになった。

 自分はまだ二〇歳なので処女かどうかで深刻に悩んだり、引け目や恥ずかしさを覚えたことはこれまで一度もなかったが、

(もしかして私は自分の未熟さから目を逸らしていただけ?)

 ママはこのとき、こずえの中に眠っていた無意識をピンポイントで突いたのだった。

 性的に幼い……周りから遅れている……女としての魅力……。

「お客の九割は男だからね。男にまるで免疫がないってなると、あんたもきついでしょ?」

「そういうことなら私、自動車の初心者マークじゃないですけど、『処女なのであまり苛めないでください』ってプラカードを首から下げましょうか?」

「そんなものぶら下げてたら《一発で》摘発される」

 いまのは真面目に怒られた。

「……お互い冗談はさておき、男は絶対無理ですってのは論外だから、そういうことも含めてよく考えておいてね」

「それってつまり」

「うちとしては採用」

「あ、ありがとうございます!」

「本当ならさっそく明日からって言いたいところなんだけど、あいにく来週から店の改装工事なのよね」

 リニューアルオープンは九月からだそうだ。

「うちで本当に働く気があるならお盆までに連絡をちょうだい。一、ニヶ月で『やっぱり合いませんでした』で辞められても困るし」

「分かりました。よく考えて決めます」

「うん、よーーく考えなさい。……あとはそうね、猫背は直しときなさいよ」

「猫背?」

「気を抜くとすぐ猫背になっちゃうようだから、姿勢は日頃から意識。立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花って言うでしょ。――女の美しさは奥が深いのよ」

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