窓際の彼と八方美人姫
尾崎中夜
プロローグ 空が曇っていたからです
プロローグ 二五歳(一)
プロローグ 二五歳(一)
「空が曇っていたからです」
中年の医師は、若い女性患者の言葉に頭を悩ませていた。
しばらくしてから「宮原さん」と再び呼びかけると、窓の外を見ていた彼女は、つかの間の微睡みから目が醒めたようにこちらを向いた。
「なんですか?」
(ガラス玉みたいだ)
透明感のある瞳に、医師はドキリとする。綺麗だが、見ていて不安にもなる。
「宮原さん、あなたが、薬をいっぱい飲んじゃったのは、どうしてですか?」
今度は一言ずつ区切るようにして訊ねた。
表情や仕草に変化がないか注意深く観察したが、
「空が曇っていたからです」
これといった反応はなく、答えも先ほどと同じだった。
医師は腕を組み、「うーん」と唸った。
「それは『異邦人』的な理由ですか?」
「いえ、別にふざけているわけじゃないんです」
微笑みを浮かべつつも、彼女ははっきりと答えた。
「つまり理由はよく分からない。……そういうわけですね?」
「はぁ」
(なんでこうも他人事みたいなのかね)
パソコンのモニターを見るふりをしながら、彼は心あらずの患者を密かに観察した。
宮原こずえ 二五歳
社会人三年目 M大学卒業後、県外の不動産会社に就職 事務職(正社員)
一人暮らしは初めて
経歴にこれといった傷はない。就職以前、大学時代に心療クリニックの通院履歴があるのと今回の薬の関係は気になるが、突っ込んだ話は少し時間を置いてからのほうがいいだろう。
(たしかに綺麗な子だとは思う)
足を止めてまで振り返るほどではないが、あとになってから(さっき見かけた子綺麗だったな)とじわじわ思い出すような、彼女には不思議な魅力があった。
たとえば、ガラス玉の瞳も見ようによってはミステリアス、大人の色気がある。かと思えば、ベリーショートに近い髪型と中性的な顔つきからは、思春期の少年のようなあどけなさも見受けられた。
しかし、医師は思う。この子は危ないな。
過量服薬で自殺を図っておきながら悪びれた様子がまるでない。それどころか自分がなにをしたのかさえよく分かっていないんじゃないだろうか。ショックや混乱によるものではなく、彼女自身の気質として。
――先生、食あたりってニ、三日ぐらいで退院できますか?
心療クリニックの医師相手に、真顔でこんなことを言いそうな気さえする。
その証拠に、ちょっと間を置いているうちに、彼女はまた窓の外を見ていた。
つられて窓の外を見るも、あいにくの曇り空。気が滅入りそうな鉛色の空に、一体なにを見ているのか。異邦人的な衝動? それとも別のなにか?
このまま放っておいたらどこか遠くへ飛んで行ってしまいそうな気がして、
「大丈夫ですか?」と呼び戻した。
「すみません。よそ見しちゃって」
彼女は洋画の登場人物みたいに肩を竦めた。ベタな仕草ながらわざとらしさがないのは、長年の癖だからだろうか。
「自分がなにをしたかは……それはちゃんと分かっていますよね?」
「色んな人に迷惑をかけてしまったと思います。請求書の処理が山ほど残っていたのに」
会話が噛み合っているようで微妙に噛み合っていないのが、医師には先ほどからもどかしかった。
「不動産会社の仕事はやはり大変なんですか?」
「それなりに、ですね。……でも、どの業界に行ったって楽な仕事なんてないですよ」
――だから、どこに行ってもいつも出口がないような気がして……それがなんだか辛くなって……。
こんな風にぼろぼろ涙を流しながら胸の内を打ち明けてくれる患者ならどれだけ楽なことか。
彼女はケロッとした表情で言うから困る。
「……宮原さんはまだ若いですし、仕事のことや私生活で悩むことがいっぱいあると思いますけど、二度とこんなことしちゃ駄目ですよ」
だからこちらも月並みなことしか言えない。
「とりあえず、一週間はなにも考えずにゆっくり過ごしてください」
「ありがとうございます。それでは失礼いたします」
患者が退室したあと、中年の医師は椅子の背もたれにぐったりと身を預けた。預けずにいられなかった。
(ああいうなにを考えているのか分からないタイプが一番怖いな)
診察中ぼんやりとよそ見ばかりしていた割には、受け答え自体はちゃんとしていたし、座っている姿も立ち姿も綺麗だった。親の躾がいいのだろうか。ドアノブに手を伸ばしたときの後ろ姿など見惚れたほどだった。
「立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花、か」
医師は眉間を揉みほぐしながら、「疲れた……」と呟いていた。
彼が宮原こずえにノートを渡したのは、診察から一週間後のことだった。
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