第三章 八方美人なんてクソくらえと思った

二〇歳(六)1

   二〇歳(六)


 京都旅行以来、頻繁に耳鳴りがする。

 先日のことだ。

「お母さん、どうして換気扇回してるの?」と訊ねたら、母親に変な顔をされた。

「回してないわよ?」

 どうやら聞き違いだった。

 なので、そのまま笑って誤魔化そうとしたら、

「あんた、最近大丈夫?」と真面目な顔で心配された。

「最近上の空でいることが多いけど、去年みたいに急に寝込んだりしないわよね?」

 時間が飛ぶことも多い。瞬きをしていたら映画のシーンが変わっていたかのように、今日もいつの間にか大学に来ていた。

「――で、どうなの?」

 はっと顔を上げると目の前に大原敦子がいて、こずえはわっと驚きそうになった。

 がやがやと猥雑な賑やかさは、学生食堂二階のゴシップ室だった。

「ごめん。なんの話してたっけ?」

 心臓がじとりと汗をかいているのを悟られないよう、こずえはニコッと笑みを浮かべた。

「クラノの話だよ」敦子は言った。

「クラノ……?」

 聞き慣れない言葉を耳にしたかのように、こずえはゆっくりと瞬きをした。

「有田ゼミの倉野と旅行したんでしょ?」

 こずえがすっとぼけていると思ったのか詰問調だった。

(ああ、たしかにブスゴンだ)

 化粧でも隠しきれないほどのほっぺたのニキビに、エラの張った顔、テーブルに乗せているボンレスハムのような腕……。ぼけていたピントがようやく合ってきた。

 敦子はテーブルに身を乗り出しながら、「どうなの?」と再びこずえに訊いた。

「どうなのって言われても……」

「私とこずえの仲じゃない?」

(えっ!)咄嗟に唇をきゅっと結ばなかったら危うく噴き出すところだった。

「付き合ってるの?」

「まさか」

「でも京都駅で手を繋いでたって」

(噂の出処は藤野先輩だな)

 根拠はないが確信はあった。それが色んなところに広がっていってこの子の耳にも入った、と。

「付き合ってもいない男女が一緒に旅行する?」

 こずえは苦笑いし、「変かな?」と訊き返した。

「男友達と旅行する女の子なんていくらでもいるよ?」

 男と女の話になると、誰も彼もすぐに「恋」だの「愛」だの「セックス」に結びつけたがる。

 こずえは敦子を世の中の女子代表として鼻で笑ってやりたかった。

「こずえはいいね」

 僻みと敵意が入り交じった目をこずえに向けながら、敦子は唇を歪ませる。

「倉野になんか弱みでも握られてんの?」

 面白半分のからかいに、頬が強張った。

「じゃないと色々分からないのよね」敦子はしたり顔で言った。

 ――いくら『私と敦子の仲』でも言っていいことと悪いことがあるよね?

 冗談っぽくならこれぐらいは言っても問題なかっただろうが、

「あー、怒った怒った」と彼女はお猿の玩具よろしく手を叩いていた。

 少しカチンときた。

「なんか誤解してるみたいだけど、倉野くんとは別に一緒に行ったわけじゃないんだよ?」

「へぇ、そうなの」

「信じてくれるかどうかは分からないけど……敦子には本当のこと言うね」

 思わせぶりに言って、こずえは顔を寄せた。――目に染みるほど香水の臭いがきつい。

「倉野くんとは京都でたまたま会ったの。清水寺を回っていたら『あれ?』って。『大学で見たことある人だよなぁ』って。倉野くんも私に気づいて――」

「こずえは男子の間で有名だもんね」

「彼も観光で京都に来てたみたい」

「そしてホテルもたまたま――」

「いちいち茶々入れるなら話すのやめるよ?」

「ごめんごめん。そう怒らないでよ」

 席を立とうとしたのはそれなりに効果があった。

「……怒ってごめん」これも演技。

 こずえは座り直して話を再開した。

「『これもなにかの縁かもね』って一緒に回っているうちに結構会話が弾んじゃって、それで一人旅が二人旅になったの」

「あの人喋るの?」

「喋るよ。置物じゃないんだから」

(置物はさすがにひどいな)言ったあとで思った。

「四六時中黙りなイメージがあったから」

「結構気さくに喋る人だよ。……あとね、声はイケメンかも。低くて落ち着いてる」

 ――目を閉じて聞いていると、俳優の――に似ているかも。

 本人が聞いたら「なに言ってんだ?」と冷笑しそうなこともおまけで言っておいた。

「ふぅん。いつも一人でいるから声聞いたことないや」

「今度話しかけてみたら?」冗談で言ってみた。

 敦子は「やーよ」と身を捩らせた。

「あの人なんか怖いもん。なに考えてるか分からないし」

「そうでもないよ」

 わざわざ言わなくてもよかったか。

「駅で手を繋いでいたことに関しては、はぐれないようにって、信じてもらえるかな? ……まぁ、旅先でちょっと浮かれちゃってたのは否定しないけど」

 終わりに「てへ」と舌を出した。

 こういう類の嘘は頑なに全部否定するのではなく、一つ二つは認めておく、これで案外騙しきれるものだ。

「倉野も運がいいね。こずえみたいな子に相手してもらえて」

「そんなことないよ」相手してもらったのは私のほう。

「私からも一つ訊いていいかな?」

「なぁに?」

 この際訊いておこう。

「一緒に京都を回ったって言っても、私、倉野くんのことよく知らないの。皆、彼のことどういう風に見てるの?」

「さては、彼氏のこと悪く言われて怒った?」

 さっき私が席を立とうとしたのを、もう忘れたのだろうか。

「彼氏なんかじゃないから。……あと怒ってもないし」

「わぁ、これ絶対ラブなやつじゃん」

 敦子はこずえの演技を微塵も疑ってなかった。

「こずえの趣味って変わってるね」

「だからそう言うんじゃないよ」

 プイとちょっぴり拗ねてみせると、これまで聞き耳を立てていた同級生達がいかにも初耳といった顔をしながら「なにがなにが?」とテーブルに集まってきた。

 敦子は、「なんでもないよー」と困っているこずえを面白がり、「実はね……」と、これまでの話を周りにも広め始めた。

 ――倉野くんって嘘でしょ?

 ――どんな人だっけ?

 ――ゼミ一緒だけど……えー、よりによってあの人?

 人の恋バナがよほど楽しいのか(それともよほど暇なのか)昼休みが終わっても彼女達はこずえのことを解放しなかった。「午後の講義があるから」と抜けようとしても「そんなのどうでもいいじゃない」とこずえを座らせ、京都旅行のことについて次から次に質問を浴びせた。

(私も人のこと言えないか)

 こずえは敦子が京都旅行の話題を持ち出した時点から、彼女の声の大きさとデリカシーのなさを利用しようと考えていた。

 相手の質問に答えながらこちらからもさり気なく質問をする。

(馬鹿となんとかは使いようってね)

 と、少し得意になっていたこずえだが、残念ながら彼女達の口から大した情報は得られなかった。

『いつもぼっちの根暗くん』――そんなこととっくに知っている。

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