二〇歳(一〇)
二〇歳(一〇)
「こずえちゃん、学食で取っ組み合いの喧嘩をしたんだって?」
敦子とのレディーファイトから数日後、こずえは秀樹と会っていた。
大学の知人友人に会わないよう、場所は大学から駅三つ分離れた居酒屋。
「蕎麦をぶっかけたって本当?」
ビールで乾杯したあと、さっそく訊かれた。
「ええ。開戦合図にしました」
グラスに口をつけながら、こずえは淡々と答えた。
「そのあとしっかり呼び出されて、学長から直々に怒られました」
一般学生が学長に会う機会なんてなかなかない。入学式と卒業式ぐらいじゃないだろうか。
(この角刈り強面おじさんが、M大学のあのお洒落なカフェをねぇ……)
反省の態度はふりだけで、話の大半は聞き流していた。
「取っ組み合いよりも蕎麦をぶっかけたことのほうがよっぽど怒られましたね。腹いせで食べ物を粗末にするなって」
「呼び出しの一番の理由はそれだ。学長は昔、苦学生だったから」
こうして話している分には、爽やかな笑顔も会話のリズム感もいつもと変わらないが、それでもときおり目が虚ろになったり、テーブルを指でコツコツ叩いたり、情緒の不安定さが見受けられた。
「こずえちゃん、飲み物のお代わり頼むかい?」
「はい。できたら食べ物も何品か」
待ち合わせ場所の居酒屋は、平日の、まだ日が傾き始めたぐらいの時間帯にも関わらず、やけに客が多かった。この様子だとあと一時間もすれば、満席になってさぞ騒がしくなるに違いない。
秀樹ははじめレストランを予約するつもりでいたが、こずえは上品な気分で彼と会うつもりはなかった。だからなるべく大学から離れた場所にある、安さが売りの全国チェーン店を探した。
いまは静かで上品なレストランよりも、猥雑な賑やかさの中に身を置いていたほうがよほど気が休まる。
「いままでの私だったら、ぐっと堪えていたと思うんです」
厚い面の皮を打ったてのひらを見つめながら、こずえは言った。
「でも、あのときはどうしても我慢できなかったんです。色んなものを侮辱されて、どうしても……」
「沙織のことも含まれていたかい?」
こずえは頷いた。
「それは性格の悪い子だね」
「見た目も悪いですよ」こずえの言葉はさらに辛辣だった。「ボンレスハム体型なのに花柄ワンピースを選ぶセンスも壊滅的です」
「見た目が悪いから心が歪むのか、それとも心が歪んでいるから見た目も悪くなるのか……どうなんだろうね?」
「先輩、それは『鶏が先か、卵が先か』と同じ問いですよ」
こずえは軟骨唐揚げをゴリゴリ噛み砕きながら言った。
「こずえちゃん、なんだか雰囲気が変わったね」
そんな彼女を見て、秀樹は言った。
口の中のモノを呑み込んでから、「そうですか?」とこずえは訊き返した。――軟骨唐揚げゴリゴリは、さすがに芝居臭かったかも。
「やっぱりそっちが素なのかい?」
「先輩。私のあだ名本当は知っていますよね?」
知らないわけがないだろうが、あえて訊いた。
「もちろん。八方美人姫」
「そうです」こずえはニコッと応えた。
しかし次の瞬間にはその笑みは消えていた。
「あれ、もう疲れちゃいました」
こずえは、秀樹の前でもとっくに演技をやめていた。
「無理して笑っても、どれだけ行儀よく愛想よく振る舞っても、私のことを嫌う人は絶対いるわけですから」
――あたし、あの子のこと嫌ーい。ぶりっ子ってほどじゃないけど誰にでもいい顔するじゃん。
波風立てずに過ごしていれば、あの頃――高校時代のような嫌な思いや苦しい思いをせずに暮らしていけると思っていた。
いままでは、それなりに上手くやってこられた。上手くやれるように努力もしてきたというのに。
――どうせいつもの気まぐれなんでしょ!
なのに、いま自分がいるのは真っ暗闇のトンネルの中。
正一が離れた。沙織が自殺した。大学でも白い目で見られるようになってきた。
(学食で蕎麦をぶっかけた女)
(可愛いふりして相当な腹黒なんだろうな)
(あの子、なんか呪いとか使えそうじゃない?)
なにかが崩れ出していて、それはもう、その場しのぎの努力や我慢ではどうにもならなくなっていた。
(もういいや)と丼を手にしたとき、敦子お気に入りの花柄ワンピースを台無しにしてやろうと思ったとき――八方美人姫は死んだのだ。
「藤野先輩が旅行に行く前、私、先輩と一度会ったんです」
「そっか……」
「お茶に誘われて色んなことを話しました」
「僕のこと、恨んでいたかい?」
暗い声で訊ねられ、こずえの中に少しだけ迷いが生じた。
先ほどからビールにもほとんど口をつけず、冷奴の角をつついているだけの彼をこれ以上苦しめたくなかったが、
「恨み言もたしかに言っていました」
それでも事実は事実として答えた。
「そうだよな。そりゃそうだ」
「でもそれ以上に斎藤先輩との思い出をしっかりと覚えていました。――誕生日に薔薇の花束を貰ったとき、本当に嬉しかったって」
「薔薇の、花束……」
秀樹はゆっくりと口にし、やがてはっと口許を覆った。
――薔薇の花束なんて気障よね? でもね、あの日は本当に嬉しかったの。だってお姫様みたいじゃない?
「後輩になに言ってんだよ、沙織のやつ」
いくら斎藤秀樹でも「別れた相手のことなんて知ったことじゃないよ」と割りきることはできないようだった。
仮に、だ。
沙織の自殺が大学を卒業したあとのことだったら(少し後味の悪い思いはしても)ダメージはさほど受けなかっただろう。
しかし沙織が電車に飛び込んだあととなっては、仮定の話などしたところでなんの意味もない。
別れて間もない自殺だった。
日の浅さが、秀樹の心に深い傷を負わせた。
軽やかな性格や、生きる上での要領のよさ、そんなものをいま掻き集めたところで応急処置すらできない。
彼にとって元交際相手の自殺は、人生初の挫折となるのだろうか。それとも、ここでもまた超人的な回復力を発揮して、あっさり日常へ帰ることができるのだろうか。
(……それはあんまりだ)
「斎藤先輩」
秀樹の青みがかった瞳は涙で濡れていた。
「悩みすぎないでくださいって言っても、無理ですよね?」
「無理に、決まってるじゃないか」
彼の瞳がより一層青く濡れた。
「私、どう言ったらいいか分からないですけど……ただ、今夜これだけは言わせてください」
こずえは秀樹に指切りを求めた。
「本当に、心の底から愛せる人と出会うまでは、藤野沙織のことを忘れないでください」
我ながら臭い台詞だと思った。
だが、こういう台詞はベタなほど、感傷的なほどいい。なぜなら――
「約束するよ」
宮原こずえに唆されて、指切りを交わした夜を、彼はいつか後悔する日が来るかもしれない。
これからの人生、どんなに成功の道を歩もうと、素敵な出会いに恵まれようと、ふとした瞬間に自殺した恋人の影がふっと過るように、沙織が秀樹の中でいつまでも生き続けられるように――こずえは今夜とっておきの呪いをかけた。
たった一言「忘れないでください」と。
居酒屋を出て間もなく、こずえはあれだけ重苦しかった胸が、少し軽くなっていることに気づいた。
(私ってつくづく嫌な奴だ)
要領がよく軽やかに生きられる斎藤秀樹と、頑なで思いつめやすい性格の藤野沙織。
どういう道を辿ったとしても二人はいずれ別れていただろう。
その何本かあった別れ道の中から、彼らはたまたま、宮原こずえがいる道を選んだ。
――私はなにもしてないのに。
――なんで私が苦しい思いしなきゃいけないの?
――むしろ被害者じゃん。
宮原こずえは、藤野沙織の死をいずれそういう風に割りきってしまえる人間だった。
責任逃れの開き直りでもなければ、罪の意識から逃れるための自己暗示でもなく、ただ、過去を淡々と忘れてしまえるのだ。
斎藤秀樹のように軽やかに飛び回るような生きかたは逆立ちしたってできないが、その代わり自分の人生から他人を器用に切り離すことができてしまう。
秀樹にだけ沙織の死を押しつけたりするつもりはなかったが、結局は今夜、彼一人に苦しみの大半を押しつけて店を出てきた。呪いまでかけて、あの猥雑な環境の中に一人置き去りにしてきた。
しかし言い訳するわけではないが、もし彼がひと月そこそこで沙織の死から立ち直ったら、彼女の人生が悲しすぎる。
(藤野先輩、それはあんまりですよね?)
こずえはいまレンタルショップに向かっていた。
沙織が好きだったあの映画が急に観たくなったのだ。
――オドレイ・トトゥは『アメリ』より絶対『愛してる、愛してない…』がいいから。
藤野沙織が好きだと言っていたフランス映画――主演オドレイ・トトゥ――『愛してる、愛してない…』
この恋愛映画のキャッチコピーは、ゾッとするほど完璧だと思う。
《あなたがバラをくれたから、私は心にケガをした》
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