二〇歳(八)2

 沙織の行きつけのカフェバー《異邦人》は、活気溢れる商店街から小路に入った、ひっそりとした場所にあった。

(私はどうしてこんなところばかり行くんだろう?)

 寂れた外観、店内の照明は薄暗く、内装も飾り気がなく素っ気ない。

 隠れ家のような雰囲気をこずえはすぐに気に入った。

「サークルを辞めてからはどうしてたの? 去年の夏頃だったよね?」

「特になにも。遊ぶ金ほしさにときどき単発のバイトとかはしていましたけど」

「言いかた……」

 沙織に話してみて、改めて自分は(この一年間なにもしてこなかったんだなぁ)と少し暗い気持ちになった。

(自分らしい大学生活を見つけてみよう)と殊勝なことを思っていた時期もあった。もう百万年前も昔の話……。

「先輩はずっとサークルに?」

「そうね。いまはほとんど行ってないけど」

「四年生になると、やっぱり就活忙しいですか?」

「まぁね。でも就活とか卒論を抜きにしても、なんだか馬鹿らしくなっちゃって」

 皆遊んでばっかり、つまらなそうに言った。

「別に、ボランティアサークルだからって毎日ボランティア活動に励まないといけない――……なんてそんな堅苦しいこと言わないけどさ。

 それでも、私が入ったときはまだ他所の大学とも交流があったし、地域のお祭りに関わったりもしてたのよ?

 いまは駄目。皆いかに楽しく遊ぶか、それしか頭にないもの。それもただ身内でワイワイしているだけ」

「くだらない」言葉の棘がだんだん増えてきている。

「あんなサークル辞めて正解よ。いまみたいな団体になるって分かっていたなら、私だってとっくに辞めてたわ」

 なにも残らなかった、と自虐的な言いかただが、そこまで暗さは感じない。

 彼女は一人芝居に酔っていた。

「ああ駄目だ。辛気臭くなってきた」

 沙織はようやくこずえにメニュー表を渡した。

「なににする?」

「先輩、先にどうぞ」

「いいの。私の一杯目はいつもビールって決まってるから」

「ビール?」

「このお店、昼は普通のカフェでも夕方からはお酒も出すバーに変身するから」

「まだ三時ですよ?」

「私は常連だから」

 ふふん、と沙織は得意げに言った。

「もちろんコーヒーもいける」

「じゃあ、私はコーヒーにします」

 一瞬(付き合い悪いわね)と非難がましい目を向けてきたが、「分かったわ」とビールとコーヒーを頼んだ。

 店主は頷きだけ返してきた。変に愛想よくしない。物静かなロマンスグレーのおじ様だ。

 ビールとコーヒーで乾杯したあと、しばらくして

「秀樹くんとは別れた」沙織がさらりと口にした。

「振られたんじゃなくて、私が振ったの」

 彼女は「私が」ここを強調していた。

「当然よ。私にだってプライドがあるもの。こういう話を彼のほうから切り出されようものなら、形の上ではどんなに円満な別れだって、結局は捨てられたってことでしょ?」

「えっと……」

「分かる?」

(もしかして責められてる?)

 慎重に言葉を選ぼうとしているこずえに、沙織はさらに言葉を重ねた。

「この間、大学のカフェで秀樹くんと会ったんでしょ?」

 言葉ほど責めているきつさはないが、その顔に微笑みを浮かべているのは、それはそれで怖い。

「すみません」こずえはひとまず謝った。

「斎藤先輩に呼ばれて……旅行の件もあったから、もしかしたらそのことかもしれないって、誤解も解いておきたかったから……――決して疚しいことはしていません」

(なんで私が謝らないといけないの?)

 どうも腑に落ちないが、頭を下げておいて損はないだろう。

「別に疑ってるわけじゃないから」

 こずえが張った予防線の下を、沙織はあっさりくぐってきた。

「秀樹くんの軽さはいまに始まったことじゃないし、彼のことはもうなんとも思ってないから」

 強がりではなさそうだった。

「もしその気があるなら、いまがチャンスよ」

 冗談はよしてください、と言いそうになった。

 しかしそんな顔をしていたのか、

「ああ、そっか」と沙織は察したようだった。

「彼のほうからもうモーションかけてるわけか」

「はぁ……」

「付き合ってくれって言われた?」

「いえ、まだ……――あ」

「いいのよ。秀樹くんのことは本当になんとも思ってないから。

 それよりも私、いますっごく晴れやかな気持ちなの」

 そう言ってうーんと気持ちよさそうに伸びをする沙織に、こずえは内心穏やかじゃなかった。

 病んだ目つきで敵意を剥き出しにしていたときよりも、憑きものが落ちたいまのほうが危なっかしく思えてならない。

「心療内科でたっぷりお薬をもらっておきながら元気で晴れやかってのも説得力ないか」

 沙織はビールの残り三分の一をひと息に飲み干し、「すみませーん」とビールのお代わりを頼んだ。こずえはジンジャーエールを頼んだ。

 飲み物がくるのを待っている間、

「いまさら謝ったところで遅いけど」

 不意に、沙織が噂のことで謝ってきた。

「駅でのきつい態度もだし、学校でもあちこちで喋って、本当にどうかしてたわ。……ごめんなさい」

「別にいいですよ」

 こずえは沙織の謝罪にあっさり応じた。

「人の噂も七十五日って言うじゃないですか? 噂は次から次に生まれるんですから、ちっぽけなものはすぐ忘れ去られますよ。私と倉野のことだって明日には過去の話です」

「宮原さんにそう言ってもらえると、少しは気が楽になるかな。……言いかたが寂しくも聞こえるけど」

「七十五日も続く噂なんてそうそうないですよ」こずえは明るく言った。

 そんなに寂しげだっただろうか。

 二杯目がテーブルに置かれてから、

「てっきり親戚か幼馴染かと思ったの」沙織が言った。

「あるいは付き合いが長い身近な男友達と冗談で繋いでみました、そんな感じ」

「実際冗談で繋いでましたからね」

 親戚、幼馴染、長年の付き合い、こずえはすべて苦笑いで否定した。

「京都駅人が多かったですし、ぽやっとしてたらはぐれちゃいそうでしたので。――『わたしを離さないで』って」

「カズオ・イシグロ?」

「はい。でも私達、たぶんこれから先も手を繋ぐのがレベルMAXな関係だと思いますよ」

「プラトニック……とも違う感じ?」

「違うでしょうね。……彼がこの関係をどう捉えているかは分からないですけど」

 いつか思ったことがある。

 斎藤秀樹がもし浮気者じゃなかったら。藤野沙織のことだけを真っ直ぐに見つめる人だったら、と。

 彼女とは文学や映画の話だけでなく、お互いの人生観についてもこうして深く語り合えるのに。

 ――あんたの顔なんて見たくない! 目の前から消えて!

 人間関係に恋愛が絡んでくると、なにもかも本当にややこしくなってしまう。

 映画でふと思い出した。

 去年サークルに入ったばかりの頃、沙織と映画の話をしていたとき、なぜかオドレイ・トトゥの話になった。

 沙織は「オドレイ・トトゥは『アメリ』より絶対『愛してる、愛してない…』がいいから」と言っていた。

『愛してる、愛してない…』は観ていたので、その意見には賛成だった。

(あ、この人メジャー作品をあえて外してくるタイプなんだな)と思ったのも覚えている。

 いま思うと、『愛してる、愛してない…』をあげていた頃から秀樹との仲が拗れ始めていたのではないか。

 これはあくまで想像でしかないが。

「……そりゃね、私だって彼を振り回したり、雁字搦めにしようとしてばかりだったから、彼だけを悪者にする気はないわ。そこまで厚かましくない。……でもね、彼だって他の子と遊び回っていたんだから。浮気なら浮気でもう少し上手く隠してくれたらいいのに……。

 ねぇ、知ってた? あいつ、宮原さん以外にもガチなアプローチかけてる子が少なくともニ、三人いるわよ」

「初耳ですけど、まったく驚きませんね」

「でしょ? そうそう。私、一人旅しようかなって思ってるの」

 話題が急に全然違うほうへと飛んだ。

 顔色や呂律に変化は見られないものの、沙織が酔い始めているのは明らかだった。

「旅ですか?」

「あ、勘違いしないでね。傷心旅行とかそんな情けない理由じゃないから」

「はぁ」

「秀樹くんとの関係も清算して、ようやく身軽になったんだもの。これからは自分のために生きていかなきゃね」

 就活もこの頃停滞気味だし、彼女はそう言って唇を曲げた。

 普段がクールビューティーなだけに、子どもっぽく拗ねたその顔は、思いの外可愛らしかった。

「秀樹くん……ああもう、何回も元カレの名前を口にしたくないんだけど、彼に言わせると私の就活は高望みしすぎなんだって。余計なお世話だと思わない? 結婚する気もないくせに」

「余計なお世話ですね」

 同意しながらも《結婚》という飛躍ワードには、こずえもちょっと引いた。

「でしょ? しかも『就活浪人するぐらいなら、どこでもいいから内定取っておかないとまずいよ』ですって」

「うわぁ、完全に上から目線ですね」

「悪気がないのがまたタチが悪いの。あの人、ナチュラルに他人を見下してるとこあるから」

「分かります」

 今日一番の同意だった。

「スペックが高すぎるのも考えものですよね。それで他人の気持ちが理解できなくなるのなら」

「あとは、フェミニスト団体の人が聞いたら十字架と釘を持って飛んできそうなことも平気で言うからね。女性の仕事はあくまで家を守ることであって、大学は将来の旦那さん探し、就職にしても社会勉強のつもりでニ、三年……」

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