二〇歳(二)2
(やり場のないこの気持ちをどうしてくれよう)
だが、人生は上手い具合にできているものだ。
こずえは一時間もしないうちにそのことを実感した。胸が悪くなるイベントのあとに、濁った胸がスカッとする、清涼剤のようなイベントが待っていたのだ。
彼女はいま電車に乗っている。
深呼吸を三回繰り返しても気持ちが落ち着かないときには人前から姿を消すに限る。
構内で知り合いとばったり会うのさえ億劫で外出することにした。次の講義は一五時からなので時間の余裕もあった。
現在一二時半。
たまには大学から二駅離れた街で孤独のグルメなんてのも悪くない。ネットで調べてみたところ(ラーメン、インド料理、学割を使えばイタリアンも!)千円ちょっとでそれなりに美味しいものが食べられるそうだ。
探検気分で知らないところを歩く。こんなに楽しいことはないと、こずえは鼻歌交じりに国道沿いの商店街を歩いていた。
ところが、しばらくして(なんか暗い場所だな)とふと周囲を見回すと、いつの間にか寂れた路地に入り込んでいた。
勘で動き回ったら十中八九迷うだろうと、来た道を引き返そうとしたとき、ピタッと足が止まった。
(これはお腹が空いてくる匂いだ)
こずえを立ち止まらせたのは、揚げ物の匂いだった。
鼻をくんくんさせながら、さらに奥に入っていくと、
《赤本弁当》
いかにも個人経営といった感じの、小ぢんまりとした弁当屋があった。見上げると、看板のペンキは色褪せていて、赤本弁当の『本』の文字が薄く消えかかっていた。
店の外観からだとまったく期待できそうにないが、いまさら引き返して食べログの評判で店を探すのも面白くない。
揚げ物の匂いは香ばしく、お腹は減る一方だ。
「いらっしゃいませ」
男性店員の挨拶も爽やかで感じがよかった。
(案外当たりだったかもしれない)
ルンと顔が綻びそうになる。
しかし次の瞬間、こずえは「ルン」どころか「あ!」と驚きの声をあげていた。
新規客の反応を不審がっていた彼も、彼女が誰なのか間もなく気づき、そして「げ!」と似たような声をあげた。
「びっくりしたぁ……」
こずえはドキドキしている胸を押さえながら言った。
「でも、人の顔を見て『げ!』はなくない?」
そう言って笑いかけると、赤いエプロン姿の彼はさっと目を逸らした。
「なんでこんなところで……」
「私のこと知ってるんだ?」
「宮原さんでしょ?」
こずえはついに窓際の彼の声を聞いた。低くて落ち着きのある、思っていたよりもいい声をしていた。
「うん。宮原こずえです」
「それで?」
「え?」
「ここ、弁当屋」彼は卓上のメニュー表を指差した。指先でトントン。「ご注文は?」
「あ、そうだったね。えーと……」
唐揚げ弁当、日の丸弁当、焼き肉弁当……。どれも美味しそうで迷う。
こずえはこのとき、なにを食べようか悩みながら、その傍らで(なんか素っ気なくない?)と、窓際の彼への不満も募らせていた。
――やぁ、宮原さん! もちろん知ってるよ。……ここは唐揚げ弁当がオススメで……ずいぶん遠いとこまでお昼を買いに来たんだね。……もしかして家が近所とか? ……へぇ、だったらまた来てよ。
こんな風にべらべら喋られてもイメージが台無しだが、(来店時の挨拶みたいにもう少し愛想よくしてくれてもいいんじゃないかな)と内心思っていた。
(客商売なんだしさ)
普段男性から言い寄られることが多いからこそ、ときにちょっと素っ気ない態度を取られると途端に拗ねてしまう、ムキになって相手を振り向かせたくなる、これは悪癖だなと自分でも分かっている。
「ねぇ」
「ん?」
「名前、なんて言うの?」
「知ってどうすんの?」
「どうもしないけど……同級生の名前ぐらい知っておいても損はないでしょ?」
「それもそうか」
倉野正一。それが窓際の彼の名前だった。
どうやらKは合っていたようだ。名前の響きも想像していたものと近かった。
「倉野くん、ここのオススメはなに?」
「唐揚げか焼肉か……。まぁ、どれ頼んでも美味しいよ」
「じゃあ、唐揚げにする」
こずえがメニューを決めると、正一は厨房を振り返り、
「唐揚げ一お願いします」と声を張りあげた。
すると、すぐに「はーい」と厨房からおばさんっぽい声が返ってきた。
「客商売だから」
正一は目を丸くしているこずえに澄まし顔で言った。
ただ、耳は仄かに赤くなっている。
「それにしても、ずいぶん遠くまで来たね。この店ホームページもないのに」
「路地をうろついてたら、たまたまいい匂いがしたから」
「たまたま、ね……」
「別にストーカーじゃないよ!」
「そんなことは言ってないし、言わないから」
(なら、その含みのある言いかたはなんだ?)
「倉野くんはバイト?」気を取り直して訊いた。
「ああ。大学からそこそこ離れてるし、店長もいい人だから」
「さっき『はーい』って言ってた人?」
「赤本弁当の店長、赤本マキさん」
「へー、そっか」マキはカタカナらしい。
揚げ物ができるまでの間、こずえはスツールに座りながら店内を見ていた。
油の匂いがたっぷりと染み込んでいる壁に『男はつらいよ』のポスターと(沢田研二だっけ? 西城秀樹だっけ?)かつて一世を風靡したアイドルのポスターが貼ってあった。
狭い店内の照明は薄暗く、有線の一つも流れていないが、
「私、このお店の雰囲気好きだなぁ」
こずえは《赤本弁当》のどこかレトロな雰囲気をすっかり気に入っていた。
「変わってるね」
「ときどき言われる」こずえはニッと笑った。「そういう倉野くんだって変わってるって言われない?」
「どうだろう。俺、友達いないし」
「あ、そう」
「うん」
「やっぱり」とも言えず、かと言って「そんなことないよ」なんて言うのもわざとらしい。
お互いに次の言葉を探していたら、
「はい。唐揚げあがり!」
厨房から小太りのおばさん――店長の赤本マキがひょっこり顔を覗かせた。
「あら、お友達?」
「同級生です」
淡々と答えられ、マキはかえって若い二人の間柄を怪しんだ。
目を細めながら「正ちゃん、M大よね?」と訊ねる。
「そうですね。M大です」
「ふぅん」
「なんですか」
「ふぅん」
マキはマスクを外した。マスクの下からは大きな口が現れた。
「だからなんですか?」
「ここから遠いなぁって……」
お節介焼きの親戚のおばちゃん。まさにそんな笑みを浮かべながらベタな質問をそのまま口にした。「もしかして彼女?」
正一はこずえのことをチラッと見てから、
「だったらいいんですけどね」なんの感情も込めずに答えた。
「面白くないわねぇ」マキはぼやく。「もうちょっと可愛らしい反応見せてくれたっていいのに……」
「もしかして彼氏?」
今度はこずえに訊ねた。
「だったらいいんですけどね」こずえは嘘っぽい笑顔を交えて答えた。
「あなたもよくこんな辺鄙なとこまで来たわね」
それでも(あわよくばボロを)と、期待の表情をしている。
「街をうろついていたら、いつの間にかこの路地に入っていたんです」
「で、揚げ物のいい匂いがしたから。……そういうことらしいですよ」
正一が補足する。
「でも珍しいわね。M大の子がここに来るなんて」
「そうですね」と正一。こずえに向けて、(ほんとにな)そんなニュアンスで。
「あなた、名前は?」
「宮原こずえです」
「あら、可愛い名前。――そうだ、こずえちゃん。よかったらここでご飯食べていかない?」
「ここで?」
「正ちゃん、先に休憩入っていいから、こずえちゃんを裏の事務所に案内してあげて」
「いや、それは……」正一は唐突な展開に戸惑っていた。「真面目に言ってるんですか?」
「わざわざこんな遠くまで会いに来てくれたんだから、少しぐらいもてなしてあげなさいよ。ね?」
「もてなしてもらえる?」
こずえはマキに便乗した。
「ほら、こずえちゃんもこう言ってるんだし」
「分かりましたよ」
店長命令ということで頷きながらも、正一はこずえにへの字口を隠さなかった。
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