二〇歳(一六)2
めでたい日でも二人の夕食は相変わらずファミレスだった。
誕生日ということで普段よりかはいいものを食べたが、いいものと言ってもファミレスの贅沢など知れている。会計が一〇〇〇円ちょっと高くなっただけだ。
この夜の二人はよく喋り、よく笑った。中身のないお喋りばかりをいつまでも。
八時半過ぎになってから、こずえは意味ありげに時計をチラチラと気にし始めた。
「これからどうしよっか?」
あくまでさり気なく訊ねたつもりだったが、正一はこのあとのことを思ったか、「そうだな……」と表情を硬くした。
(なんて言うかな)
浅く頬杖をつきながら、こずえは彼の言葉を待っていた。
「この週末の夜は、俺にくれないか」
ようやく誘い文句を口にしたかと思えば、浜田省吾まんまだったので、こずえは「ふふっ」と小さく声を立ててしまった。
「ごめんごめん」
「気の利いた台詞が思い浮かばなかったんだよ」
(だから笑うなよ)と顔を赤くしている彼に、こずえは「いいよ」と笑顔を返した。
正一の部屋は、色気も遊びもない、さっぱりとしたものだった。
モノらしいモノといったら本と漫画でぎゅうぎゅうのカラーボックスが三つ並んでいるだけで、テレビなどない。あとは小さな座卓に、ノートパソコン。
そして、少々大きめの一人用ベッド……。
ドライヤーで髪を乾かしている正一の後ろ姿を見ながら、こずえはいまさらながら(私、いま男の人の部屋にいるんだな)とぼんやり思っていた。
不思議と緊張はしていない。
今夜だけなら彼とそういうことをしてもいい。こずえは家を出る前から心の準備をしてきた。
だから部屋に上がるなり平気でシャワーを借りられたし、シャツや下着の替え(避妊具まで)バッグの中に潜ませていた。
ただ、用意してきた誕生日プレゼントだけは、そういう空気になる前に渡しておくことにした。
「お、こいつはいいな」
こずえは正一のプレゼントにブックカバーを選んだ。
文庫用とハードカバー用で二つ。柄は和風テイストと南国テイストにした。
「ありがとう。凄く嬉しいよ」
「なんのなんの、明るい未来への投資だと思えば」
「投資?」
「倉野が作家デビューしたら、デビュー作の献辞に私の名前あげてくれるんでしょ? 『僕の青春だったMさんへ』って」
「ヒロインは四割増し美人か?」
ノンノン、こずえは指を振り、「五割」と希望を口にした。
はは、と正一は笑う。「ほとんど別人じゃないか」
「だね。三〇までにデビューぐらいはしといてね」
「軽く言ってくれるなぁ。……頑張るけどさ」
「うむ。頑張りたまえ」
「やれやれ」
「で、これからどうする?」
「え?」
素なのかそれともいまさらとぼけているのか、
「まさかこのままおやすみなさい?」
こずえは相手に考えさせる暇を与えなかった。
さらにじいっと見つめる。
正一はすっかり落ち着かなくなっていた。
「そうだな……」
目を合わせたかと思うと、すぐに逸らしてしまう。今度こそ見つめ合ったかと思えば、ほんの数秒でまた……。
「ちゃんとこっち見なよー」
こずえはもどかしくなり正一の真正面に回り込んだ。
「ねぇ、これでも真面目に言ってるんだよ?」
「分かってるよ。分かってる」
(もういっそ押し倒してみる?)
見つめ合う中で、こずえは距離をそうっと詰めた。
「俺、今夜はずっと起きていたいな」
肩に手を置こうとしたとき、正一がポツリと言った。
「びびってるとか、宮原のことを傷つけてしまうんじゃないかとか、そういうことじゃないんだ」
(あ、これは真面目に言ってるやつだ)
ぺたんと座り直したこずえに、正一は「ごめん」と言いながらも、「でも」と続けた。
「今夜はとにかく宮原と話していたいんだ。楽しい話でも、暗い話でも、将来の話でも、過去の話でも、なんでもいい。夜が明けるまで、一言でも多く話していたいんだ」
八月の夜明けは早い。六時ともなると、すっかり太陽が昇っている。
日曜日の朝、町はまだ眠っている。
二人は橋の上からガラスの破片をばら撒いたような川を見ていた。
「鴨川と比べると、やっぱりここは地味だね。ただの川だもん」
こずえは先ほどからずっと目を細めている。川面に反射する日光がキラキラと眩しすぎて、徹夜明けだと頭がガンガン痛くなってくるほどだった。
「地味でなんの面白みもない川に俺はほっとするけどな」
正一も欠伸が止まらないようだった。
「倉野がずっと寝かせてくれなかったからすっごく眠い」
「言いかた……」
夜通しで話していたから、もう話すこともなくなっていた。
二人は本当にたくさんのことを話した。
なので、今朝の会話は次第にポツリポツリ。返事も「ああ」「そっか」と適当なものになってきていた。傍から聞いていると、倦怠期のカップルのような会話だ。
二人にはその気怠さがなにより心地よかった。
「倉野、夏休みが明けたら大学に来るんだよ」
「ああ。宮原もスナックのバイト頑張れよ」
「ちゃんと、来るんだよ」
「分かったよ。――またな、宮原」
別れ際に二人はキスを交わした。
最初で最後の、それは本当に自然なキスだった。
夏休みが明けてからも正一は大学に来なかった。
いつかこういう日が来るだろうとは思っていたから、こずえはそこまでショックを受けはしなかった。
ただ、胸に小さな穴があいただけのこと。
「倉野、大学辞めたんだってね。学生課の人に聞いたんだけど、なんかワケありみたいで――」
大原敦子の報告すべてが出鱈目でも構わない。むしろ正解なんてないほうがいいぐらいだった。
そう。一つの正解さえも……。
「ねぇ、ちょっと聞いてる!?」
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