二〇歳(四)
二〇歳(四)
旅行二日目。
二人はホテルの近くの喫茶店で遅めのモーニングをとっていた。
「今日はどうする」
目蓋を擦りながら正一が言った。
濃いブラックコーヒーを飲んでいても欠伸を繰り返してばかりの彼に、
「眠そうだね?」とこずえは言った。
彼女のコーヒーには、砂糖が二つ、ミルクは一つ。爽やかな昼前にふさわしい健康的な一杯である。
正一は夜遅くまで初日の取材内容をまとめていたそうだ。
「さすが未来の芥川賞候補」
「そういうのよせよ。宮原こそ眠そうじゃないか。目をシパシパさせてる」
こずえはコーヒーカップの底を意味もなくスプーンで掻き回していた。
「そう?」
「旅先だと眠れないタイプ?」
「うーん。カプセルの中で『あしたのジョー2』のアニメを観てたからかな」
「ああ、そういえばあったな」
カプセルホテルと言ったら「寝るためだけの狭い箱部屋」というイメージを持っていたが、いまどきのカプセルにはテレビがついている。そう珍しい話ではないらしく、カプセルの中も思っていたより広々としていた。
「お笑いライブも捨てがたかったけど、私の心はジョーに傾いちゃったんだなぁ。タイトルは聞いたことあっても、どういう内容なのかボクシングぐらいしか知らないし。……で、初めて観たんだけどもう最高! 矢吹丈みたいな男性が身近にいたら絶対恋しちゃうね。きっと紀ちゃんみたいになる」
「紀ちゃんは西と結婚するぞ」
(話の腰を折るなぁ)
こずえが睨めつけると、正一は「悪い」と肩を竦めた。
「宮原って初恋の人がブラック・ジャックとかその口だろ?」
「分かっちゃう?」
「そういう女の子は割と多いしな」
「女の子ってさ、べらべら口が上手いだけの人よりも、孤高の人の寂しそうな瞳にときめいたりするものなんだよ」
「俺は?」
「倉野はただのぼっち」
「ひでー言いようだな」
「ところでAVは観た?」
「はぁ?」
「あったでしょ。お笑い、料理、映画、アニメ、アダルトって」
「チェックはしたけど観てないよ。好みのジャンルがなかった」
「へー、好みのジャンルとかあるんだ」
こずえはテーブルに身を乗り出して訊いた。「教えて教えて。ここだけの話にしといてあげるから」
やだよ、と言ってもこずえは引かないだろうと見て、正一はボソリと言った。「……温泉宿でイチャイチャ」
「ふぅん」
「なんだよ。引いたか?」
「ううん。いいと思う」
「よかねーよ。冗談に決まってるだろ」
冗談にしてはジャンルが具体的だった気がする。
こずえはくすくす笑いながら話題をジョーに戻した。
「いまこの瞬間だけを全力で戦い続ける姿ってやっぱり憧れちゃうよね。私なんかほら、ふらふら惰性で生きているタイプだから特に。ジョーみたいな――ああいう刹那的な生きかたってどういう感じなんだろうね」
問いかけというよりも独り言に近かった。
だが、正一はこずえの独り言にも、
「美しいんじゃないかな」と真摯に答えた。
「美しい?」
「いつまでも色鮮やかに残り続ける、そんな美しい瞬間だと思う。人生に真面目に向き合っていれば、誰だって本物の瞬間が一度や二度は訪れるはずさ」
「私が一番苦手なことだなぁ」
「それが宮原のよさでもあると思うよ」
「そう?」
「俺は四〇ぐらいで死にたいけどね」
彼はさらっと言った。
その上、軽く笑みさえ浮かべていたから、こずえは一瞬息が詰まった。
「爽やかな朝に物騒なことを言うね」
彼に動揺を悟られないように気をつけた。
「理由、聞かせてくれる?」
「ああ、聞いてくれ」
正一は彼の四〇年プランについて話し始めた。
「俺はまず三〇歳までに小説家になる」
「うん」
「デビュー後しばらくは鳴かず飛ばずだけど、三〇代後半にしてようやく文学賞の候補に名を連ねるようになる」
「えー、そこはもう芥川賞や三島由紀夫賞はとっくに取ってるとかじゃないの?」
志が低いなー、とコメントするこずえに、正一は「まぁ聞け」とやんわり言った。
「四〇間近、文学賞まであと一歩、担当さんに『来年こそきっと取りましょう』と励まされて、よし来年こそは――と決心した翌日にぽっくり逝ってしまう。
ほんの一ヶ月だけど俺は伝説になる。こういう人生も悪くないだろ?」
「その未来予想図、ちょっと痛くない?」
「目をキラキラさせてサクセスストーリーを語るよかいいだろ」
本人の中ではそれなりに理想のストーリーのようだ。
「伝説になりたいんだったらさ、デビュー作が芥川賞候補、だけどあと一歩のところで賞を逃し、選考の一週間後に玉川上水に水死体で見つかる。こっちのほうが夭逝の天才っぽくてよくない?」
「水死体はさすがにやだよ」
口ではそう言いつつも――過去の文豪達と自分を重ね合わせているのか――表情のほうは満更でもなさそうだった。
「宮原は将来の夢あるの?」
今度は正一が訊いた。
こずえは一秒も考えることなく「ないよ」と答えた。
「なにも? こうなりたいとかも?」
こずえは首を振った。
「本当になにもないんだな、これが」
「まるでないのか」
「大学卒業したあと自分がなにやってるか想像つかないし、一〇年後なんて猫型ロボットが大量生産されるよりも未来の話に思えるもん。
バリバリのキャリアウーマン? 彼のプロポーズ待ち? ……部屋とYシャツと私? どれもピンと来ない」
「なら、バックパッカー?」
「それが一番ありそう」
こずえは手を叩いた。
「永遠に自分探ししてそう」
「三〇になっても自分探ししてたら、それこそ痛くないか? 自分探しのリミットは大学生までだろ」
そんなの誰が決めたの、と言い返しそうになった。
「この旅行中に少しは見つかるといいなぁ」
見つかるほどの自分がいるかはともかく。
「そう簡単に見つかりはしないだろ。人間腹を括ろうと思ったら、それこそ清水の舞台から飛び降りるぐらいの強烈な体験でもしないと」
正論にへの字口のこずえ。
(いっそ飛び降りちゃう?)
といじけていたら、彼女は不意にあることを思いついた。
「倉野、ちょっと待ってて」
こずえはスマホで《関西 バンジージャンプ》と検索してみた。
すると一件ヒットした。
「やった。やってるよ。これ見て」
こずえはスマホの画面を正一に見せた。
「奈良って京都からそんなに遠くないよね?」
「バンジー? ……おいおい、俺は絶対やらないからな!」
冗談じゃない、と彼は激しくかぶりを振った。
「えー、作家志望でしょ? なんでも経験しとくべきじゃないの?」
「俺はバンジージャンプが出てくる小説を生涯書くつもりはないからいいんだよ。大体、自分探しをしたいなら宮原自身が……聞いてらっしゃる?」
「あちゃー、やっぱり当日じゃ駄目か。明日も予約いっぱいだし。そりゃそうだよね。ゴールデンウィークだし」
「それは残念だったな」
もし予約が取れたらどうなっていたことか。正一は安堵の表情を浮かべていた。
「世の中にはわざわざ高いお金を払ってまでバンジーする物好きがたくさんいるんだね」
「お前もその一人だろ」
「奈良ってバンジーの他になにかあったっけ?」
こずえは正一の突っ込みを無視して訊ねた。
「鹿だろ。あと大仏」
「鹿かぁ。鹿さんとは遊んでみたいけど、そのために行くのもなぁ」
スマホをひとまずテーブルに置く。
「近場なら滋賀か?」
正一もポツリと言ったが、すぐに「駄目だ」と前言撤回した。
「琵琶湖しか思いつかねぇ」
「大阪?」
口にしてからこずえは店内の時計を見た。
11時を回っている。
「いまから行っても観光とかできそうにないね」
「これもランチ寄りのモーニングだしな」
朝寝坊の弊害だった。
こずえは欠伸を堪えて、「どうしよっか」
トーストもコーヒーも片づいている。そろそろ行き先を決めないと喫茶店で半日が終わってしまう。
「とりあえず京都内にしよう」
正一の提案に、こずえは「同感」と答えた。
「じゃあさ、映画村とかどう? 倉野も映画好きでしょ?」
「映画村? いいね」
二人は昨日、京都散策の最中、お互いの好きなものについて色々な話をした。映画の話もあった。
正一の好みはアメリカン・ニューシネマで、『タクシードライバー』も当然好きとのことだった。
――私はウディ・アレンかな。
――ああ、なるほど……。宮原っぽい。
――でしょ?
「そうだ。映画村に行くなら嵐山にも行ってみるか? 渡月橋は現地取材しておきたいし、運がよければトロッコにも乗れるかもしれない」
「トロッコ!」こずえは目を輝かせた。「乗りたい。それは乗りたいよ!」
「この時期は乗れるか分からないけどな。人が多すぎて」
「倉野は悲観主義者だなぁ」
「現実主義者と言ってくれ」
(ああいえばこういう)
「大丈夫だよ」こずえは楽観的に言った。
「私を誰だと思ってるの? ゴールデンウィーク直前にも関わらず、宿と飛行機をダブルで取ったラッキーガールだよ?」
正一は(バカヅキめ)といった表情を隠さなかった。
「そういうことなら、宮原様の運に期待するとしますか」
彼はこずえに手を合わせ、そして伝票を手にした。
「願掛けってことで、コーヒー代は俺が奢るよ」
「ありがとう」
笑顔でお礼を言いながらも、こずえは内心(倉野ってちょいちょいカッコつけたがりだなぁ)と彼の気障な言動を面白がっていた。
昼からは映画村と嵐山に行った。
二人は時代劇のセットや忍者ショーのアクションにはしゃぎ、嵐山では風情たっぷりな渡月橋を渡った。
写真を撮ったりメモを取ったりと、正一の取材も首尾よくいっていた。
そして彼の願掛けの効果か、トロッコの最終便にも乗れた。電車とは違う、緑のトンネルの中を走るトロッコの旅に、こずえは終始興奮していた。
夜は木屋町でお酒を飲んだ。飲み屋街ならではの熱気や怪しげな雰囲気に酔いながら、旅先で気が大きくなっていたのもある。こずえはカクテル、ワイン、日本酒と、日が変わるまでグラスを空にし続けた。
一方、ゲラゲラ笑っている彼女の横で、正一は途中からずっと、いまにも吐きそうな青い顔をしていた。
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