二〇歳(五)2

 京都駅に戻ると、Uターンラッシュが徐々に始まりつつあった。

 夕方前なら大丈夫だろうと軽く考えていたが、どうやら考えることは皆同じで、駅内の混雑っぷりは目が回るほどだった。

 人の間を縫うようにして歩かないと前にも進めず、ぼんやりしていたら、あっという間にお互いはぐれてしまいそうだった。これだけ人が溢れていると、(化け狐の一匹や二匹紛れているんじゃないの?)と、ふとそんなことを考えてしまう。

「二日酔いよりひどいな」

 こずえの膝枕でいくらか元気になった正一も、人のこの多さには参っていた。額の汗を頻りに拭っている。

「バスの悲劇再びだね」

「なんで嬉しそうなんだよ?」

「か・ら・げ・ん・き。倉野、手ぇ繋ごうよ」

「手?」

 正一は怪訝な面持ちで訊き返した。

 その場に立ち止まりかけたが、人の流れに押されて止まれなかった。

「はぐれたら面倒だもん」

 こずえは照れもなく言った。

「京都駅広すぎてどこがどこだか分からないし。私みたいな美人さんが一人でいたら変なおじさんに絡まれるかもしれないでしょ?」

「自分で言うかって言いたいところだけど、たしかにそうだな」

「そういうわけで」

 こずえは正一に手を差し出した。

「わたしを離さないで。バイ、コズエミヤハラ」

「……お前、それ言いたかっただけだろ?」

「バレた?」

(やれやれ)と息をつきながらも、正一はこずえの手を取った。

 手を繋いだあと、彼はなんでもない顔を装いながら前だけを真っ直ぐ見ていた。女の子のてのひらの柔らかさに慣れていない彼は、頬が強張っていた。ほんのり赤くもなっていた。

 一方、こずえは手を繋ぐぐらいなんてことなかった。膝枕よりよっぽどノーマルだ。

「お土産屋どこから回ろっか?」

「お茶が売ってるところでいいんじゃないか?」

 適当な答えが返ってきた。

 それから二人は、お茶、お菓子、漬物など品揃えまずまずの店に寄った。

「お母さんは抹茶と、それに合うお菓子。お父さんは……湯葉でいっか」

「親父さんにはずいぶん適当だな」

「いいのいいの。一人娘が無事に帰ってくるのが一番のお土産だから。倉野は誰に買ってくの?」

「マキさんと茜さん。なるべくいいもの買って帰らないと、あの二人にはチクチク言われそうな気がする」

「家の人には?」

「いらないよ」

 正一は急に素っ気なく言った。

「しばらく帰省する予定ないし。わざわざ送るのも面倒だ」

「そっか。じゃあ、自分用になにか買っとかないとね。白味噌とかどう……」

(家族の話は今後も触れないほうがよさそうだね)

 旅行中、彼は家のことについてはあまり話したがらなかった。こずえもただの雑談として訊いただけだったので、すぐに察して別の話題に変えた。

 県外出身である正一が、なぜM大なんて田舎の国立大学に入ったのか。彼の地元にはいくらでもいい大学があるというのに。

(家族仲がよくないのかな?)

 このときは単純にそう捉えていた。


 お土産屋を出たあと、一五時までまだ一時間半あったので、駅内の書店に寄っていこうという話になった。

 ところが書店に向かっていたとき、こずえは思わぬ二人と遭遇することとなった。

「あ」彼らと目が合った瞬間、さっと逸らそうとしたが、もう遅かった。

(なんでこの人達がいるの?)

「こずえちゃん!」

 こずえ達に気づいたハーフのイケメンは、軽やかな足取りで二人のもとへとやって来た。

「いやぁ、偶然だね」

 その斎藤秀樹の隣で「宮原さん?」と目を丸くしているのは、藤野沙織だった。

 こずえ達もだが、この偶然の出会いには――かつて在籍していた――ボランティアサークルの先輩達も驚いていた。

「もしかして彼氏?」

「おいおい、会うなりそれは不躾じゃないかい?」

 秀樹は恋人に苦笑した。

 沙織の質問が単なる興味本位でないことは明らかだった。念のために確認しておく、冷めた訊きかただった。

 藤野沙織は元々痩せ気味なほうだったが、去年はまだスレンダー美人で通っていた。彼女のクールでシャープなスタイルに憧れている新入生も実際多かった。

 それがいまでは……。

(痩せすぎじゃない?)

 こずえはその言葉を呑み込んだ。

 沙織は神経質な目をこずえに向けたまま、秀樹の日焼けした腕を取った。細い腕をきつく絡める。

 後輩に恋人との仲を見せつけているというよりも(彼は私のものだから!)と強烈な独占欲の表明だった。

「あの、藤野先輩」

「この男の子とはどういう関係?」

《無茶なダイエットに失敗して心身ともに病んでしまった女子高生》

 久しく会った沙織に、こずえが抱いた印象である。

 見るからに骨っぽい身体つき、顔色も白さを通り越して青い……。

 と、このとき、こずえの関心が沙織一人に向いていたように、いつの間にか秀樹の関心も正一に移っていた。

 それは冷静な観察だった。

 正一のことを宮原こずえの同行者としてではなく、一個人としての彼を、青みがかったその瞳で探ろうとしていた。

 こずえと正一。繋いでいた手は、もうとっくに離れていた。

 やがて秀樹が正一に訊ねた。

「君、どこかで会ったことあるかな?」

「いえ――いや、大学ですれ違ったとかじゃないですか?」

 わざわざ言い直したのがどこか不自然に思えた。

「いや、大学以外で」

「ないと思います……」

 正一は次第に俯き始めていた。

「なんだ。人違いか。――こずえちゃん、旅行は帰り?」

 秀樹は正一に興味をなくし、再びこずえのほうを向いた。

「はい。一五時の《はるか》で京都を発ちます。先輩は?」

 沙織の刺々しい視線をなるべく意識しないようにして答えた。

「僕らは明日までいる。帰りにバタバタしたくないからお土産の下見だけでもしておこうかなって」

「そうですか……。あの、私達そろそろ切符を買いに行くので」

 こずえはこの場をさっさと切り上げることにした。

「失礼します」

 軽く頭を下げ、立ち去ろうとしたら、

「京都っていいところよね」沙織が唐突に言った。

「旅行は楽しかった?」

「とっても」こずえはニコッと返した。

 沙織の絡みがだんだん鬱陶しくなってきた。

「藤野先輩。あと一日、旅行楽しんできてくださいね」


 秀樹達と別れてからも、正一の表情は硬いままだった。

「倉野、もしかして斎藤先輩と知り合い?」

 こずえは機を見て訊ねてみた。

 正一はしばらく口を閉ざしていたが、やがて「ああ」と頷いた。

「同じ高校だよ。面識はなかったけど」

 そういえば、いつかサークルの飲み会で、秀樹が小中高いつも生徒会長を務めていたという話を聞いた覚えがある。

 正一が斎藤秀樹のことを知っているのは分かる。母校の生徒会長なのだから。

(でも、斎藤先輩はどうして?)

 あの場は「人違いか」で済ませていたが、彼は間違いなく倉野正一のことをなんらかの形で知っている。あるいは覚えている。

「切符売り場ってあっちだっけ?」

「こっちだよ」

 正一は反対を指差した。

「私、最後まで方向音痴だったね……」

 気分を変えたかったのに、かえって気まずくなっただけだった。


 それからというもの、帰りの特急、空港、飛行機と、これまでの旅が嘘のように、二人の会話は減っていった。

 沈黙は旅の思い出が少しずつ損なわれていく音だった。

 フライト中、眠りかけていたときのことだから、もしかしたらそれは聞き間違いだったかもしれない。

 しかし夢現ながらもこずえは、正一の沈鬱な声を聞いた気がした。

 ――うん……いい思い出になった……。

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