2章 8.探求をしてみた。

 ――こんなの誰でもないだろ! 鼻に緑の筋があるって人間かよ! それになんだよ、このふぬけた表情は! 俺を公開処刑にする気か!? とんだ画家様だな。はやくやめちまえ! お前に才能なんかねぇよ!


 朝が来た。目を覚ますと、あの時の光景がふと浮かんだ。以前、依頼者によってクリスに浴びせられたこの言葉。私もあの時、隣にいたのではっきりと覚えている。クリスが時間をかけ仕上げたあの剣士の肖像画。それをあの言葉で全てを無に返された。それをきっかけに、クリスの自信までも少しずつ削いでいった。もしかすると彼に元々自信などなかったのかもしれない。挫折したからこそ、私と出会うことにもなった。そこからまた、ただ自分だけの表現方法を追い求めて、追及していただけだ。


 それが自分への探求、そしてこのアート界で記憶石には出来ない表現への探求だった。サンダリアンの内なる姿を彼なりの表現を用いて肖像画にし、最近は賞賛も浴びるようになった。だか逆もしかりだ。そこからその表現をけなす者も現われ、例え結果が全てではないと分かってはいても、誰だって多少凹むことにもなるだろう。


 私はそんなことを思い出しながら、いつものように朝、当初クリスが使用していたベッドから目を覚ました。この狭い家は8畳程のキッチンを備えた部屋と、クリスの小さな画廊部屋がドア1枚隔ててあるだけだ。いつもならクリスは私より先に起き、私を仕方なく起こすというのが1日の始まりとなっている。だが、今日は違った。私はベッドからむくりと起き上がり、狭い部屋をどんなに眺めてもクリスは見当たらない。まだ起きていないのだろうか。クリスが寝坊する事は、非常に珍しい。その時小さなうめき声が隣の画廊部屋から聞こえた気がした。気になり、そっと部屋のドアへ耳を近づけると、やはりクリスの息苦しそうな声が漏れ出ていた。


「おいクリス、入るぞ」


 返事はなかった。ゆっくりとドアを開けた先には、いつものように小さなソファーをベッド代わりにしている彼がいた。淡い水色コットンの寝巻姿で、薄いタオルケットをかけただけの姿で横ばいになり、まだ夢の中だった。だが眉間にシワをよせ、油汗でにじんだ顔があり、明らかにいい睡眠とは思えない。両手を顔の前で投げ出すように置き、細い金のような髪だけがやけにさらりとしている。クリスはまだ小さな嗚咽のような声を漏らしていた。その横顔から見える右の瞳からは涙が一粒だけ零れた。


「クリス!」


「……あ、レイさん」


 あまりにも悲愴ある寝顔から一刻もはやく救い出したいと、名前を呼ばずにはいられなれなかった。眠りが浅かったのか、すぐに目を覚まし、彼のまだ大人になりきれていない不安定な声が流れた。


「大丈夫か、うなされてたぞ」


「あ……、この間の依頼者の夢を見ていて……」


 ソファーの上で起き上がったクリスは、寝癖を少し残したまま、言いにくそうに下を向き、言葉を発した。


「この間って……、もしかして、鼻に緑の筋の入った男のことか」


「はい……」


 これだけ聞けばおかしな話だが、もちろん現実のものではない。クリスがキャンバスの上で、表現の上で行った出来事の話だ。クリスまでもが私と同じ内容を夢の中で見ていたとは、驚いた。


 『フォービスム』を代表する巨匠『アンリ・マティス』の作品の1つに、自身の妻を描いた『緑の筋のあるマティス夫人の肖像』がある。先日、クリスは巨匠アンリ・マティスと同じようにキャンバス上の顔面の鼻筋に緑の線を描き入れ、それは依頼者の反感を非常に買い、怒らせてしまった。今でこそ歴史に名を残すアンリ・マティスも当時のアート界でかなりの反感を買っている。


「はい、あの時はかなり怒らせちゃいましたね……」


「クリス、アートの世界、表現の世界では決して100%受け入れられるものはない。だからこそ面白いんだ。これからもまたきっと同じことがあるはずだ。クリスが画家としてこの世界を表現すればするほど、そうだ。それなりに知名度は上がれば、またそれは広がって行く。色んな意味でだ。それは自分でもよく分かっているだろう?」


 クリスは私へおもむろに顔を上げた。


「はい。分かっています、分かっている……つもりです。僕、ちょっと嬉しかったんです。色んな人に『自分の絵を描いてくれ』と言われて……。あの万能魔術士のモルファーさんにも頼まれて……。だって、今まで僕、必要とされなかったんですよ。記憶石で十分だって言われて。そこでレイさんやサンダリアンさんに助けられてここまでやってきたんです。ばーちゃんのためにも頑張りたいっていう気持ちもあるんです。ですが、僕は……、みんなの期待に答えられるのか……、そればっかり考えてしまって、時々不安になるんです……。また才能がない、と言われて終わるんじゃないかって……」


 また目を伏せ、ソファーの上で足元を虚ろに見つめながら座るクリスは、全身に力を込めるように、ももの上でぎゅっと拳を作った。


「みんなの期待に答えられなかったらやめるのか? クリス、君はみんなのために絵を描いているのか?」


 クリスは一時の間黙り込んだが、少しすると、若干声を詰まらせながら漏らした。


「違います。だから悩んでる、んです……」


「それだけ悩んでるってことは、もう分かってるんだろう? その探求への答えが」


 クリスがここまで悩んでいる理由、それは自身と戦っているからだ。人に求められるものをそのままダイレクトに表現すればそれはきっと喜びを皆へ至極与えられ、仕事もどんどん舞い込むことになるだろう。だが、そこでクリスは悩んでいる。本当にそれでいいのだろうか、と。人によってはそれでいい、それがいい、という者も中にはいるだろう。だが、クリスは違う。求められる域の中ではなく、己の表現を常に追い求めていきたい男だ。私が知っている限り、表現の世界で巨匠や先鋭と言われる者達はやはりそのような者ばかりだった。


 クリスが右手で涙をぬぐったかと思うと、はっきりと答えた。


「さすが、レイさん、なんでもお見通しですね」

 

 そして赤い目ではにかんだ笑顔を見せてくれた。今度こそきっと大丈夫だ、私はそう思った。

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