2章 10.新しい表現に触れてみた。

「出来たのかついに! モルファーの肖像画が! というか大丈夫か!? なんだその顔は……!」


「クリス君、大変っす!」

 

 私は洗っていた食器を置き、仕上がりが近いと知り、ここへ来ていたサンダリアンと共に駆け寄った。画廊部屋からふらふらと出てきたクリスは非常に具合が悪そうだ。今にも倒れてしまいそうな彼の肩を二人で支えた。


 クリスはいつもこうだ。絵の仕上がりに近付けば近付くほど、体力をどんどんと消耗していく。今回はいつもより一段と疲弊が激しかった。その時、モルファーもまた狼狽えるように画廊部屋から足早に出て来て、クリスを支えた。ここ3日間、クリスはほとんど画廊部屋へ引きこもっていた。自身の描いたモルファーの肖像画と極限まで向きあい、自身の寿命を削り、その命を吹き込むかのように。モルファーも仕上がりまでのラスト3日間、仕事を入れず、この家へ通ってくれ、クリスに辛抱強く根気強く、付き合ってくれた。彼はこれまでのクリスと誰よりも一番に向き合っている。クリスがどれだけモルファーの肖像画と向きあい、挑んできたのか、その挑戦の日々は彼の表情から物語られていた。モデルであったモルファーの目はうっすらと赤く、そして潤いを帯びていた。


 私は何か問題がない限り、クリスの描く絵が完成するまではほとんど見ないことに決めている。サンダリアンの肖像画の時もそうだった。要望は出すが、彼の絵画は彼自身だけが見つめる事により完成する。何より私は、クリスが最後に到達する世界を見るのがとても好きだった。


 そして私達はクリスの肩を支えながらモルファーの肖像画の前へ駆けつけた。そこには彼の上半身が描かれた姿がある、はずだった――


「こ、これは……、どういう……」


 私はその絵から目が離せないまま、思わず言葉を詰まらせ、絶句してしまった。隣のサンダリアンも同じように目を見開いたまま黙り込んでいる。そのすぐ横で立っているモデルのモルファーは、この上なく穏やかで、そして力強い眼差しをその絵に送っていた。まるで母性に満ちた母親のように。画家、サーザント・クリスは間違いなくそこに、再び新しい世界を築き上げていた。だが、彼が施した表現方法、それはまるで――


「……僕から見える、モルファーさんの美を描きました」


 彼は憔悴した中、きっぱりとそう言った。その時、私はすぐさま思い出した。クリスへ向かって罵声を浴びせていたあの依頼者達を。『お前に才能なんかねぇよ』と言っていた者達を。クリスは彼らから投げられた挑戦状をしっかりと、そして静かに受け取っていたのだ。


「……説明してくれ」


 私はやっと吐き出せたかのようにそう言った。彼には彼の見えている世界がはっきりとあるはずだ。私の予想に間違いがなければ、クリスはあの巨匠と同じことを、いやそれ以上のことをこの絵に挑み、表現したことになる。


「……はい。この絵は見ての通り、様々なパーツがモルファーさんの顔に描かれています。目、眉、鼻、口、耳、髪の毛。そして上半身部分は腕に手、指です。……レイさんが何を説明してくれと言っているのか、僕には分かっています。それは各パーツの場所、そして見え方、ですよね」


「ああ、そうだ」


 私の見えているものを説明するとすれば、こうだ。椅子に腰かけている上半身のモルファーが正面に向かって描かれている。恐らくだが。なぜ定かではないかと言うと、体の部位や顔のパーツが一つ一つばらけており、まるで福笑いゲームのようだからだ。辛うじて顔にあると分かるその二つの目は、左右不揃いな場所で描かれ、それぞれに別方向を向き、正面を向いているはずのモルファーの高い鼻はなぜか真横で描かれている。そして唇はやたらと大きく描かれ、眉毛も目の上にはあるが、明らかにリアルとはかけ離れた極太だ。そして上半身。そこにはモルファーの黒いローブが描かれていはいるが、見えていないはずの腕が体の中心から生えているように描かれ、彼のたくましい筋肉が見えている。背景は以前のサンダリアンの肖像画とは違ってかなりシンプルで、赤黒い一色で塗られていた。その絵は、全体を通して見ればただの恐ろしい怪物のようだった。


「……僕は、大勢から美男美女を描くよう期待されました。今でもそうです。だから、僕から描いたんです。モルファーさんの美を追求し、彼の底知れぬ、ただ美しい部分だけを。……僕は挑んでみたかった。記憶石にも不可能で、そして僕にしか見えない美を描いてみたかった。その結果がこの表現として現れた、ただそれだけなんです。僕が見える彼の美は、このキャンバスの上に一切の無駄なく、きっちりと存在しています。これこそが僕が描く、究極の美です……!」


「究極の美……」


 クリスは息が荒くなるほど、最後に力強く宣言した。私は彼の言葉を唱えるように呟くと、押し黙った。まだその絵画から目が離せずにいる。今、私の脳内はぐるぐると目まぐるしく様々な思考を巡らせていた。私は一人の巨匠が浮かんでいた。この絵を見てからずっと。


 ――クリスの表現、構図や描き方は多少違えど、間違いなくその表現は合致していた。それは、誰もが知る絵画の巨匠が築き上げた多視点からの表現方法『キュビスム』だった。その表現方法は形態の革命とも言われ、1907年から1915年までと短い間ではあったが、様々なキュビズム作品が生まれた。その代表がパブロ・ピカソである。誰もが知る絵画の巨匠は、キュビスム作品を多く描き発表した。そしてあの色彩の魔術師、『フォービスム』を確立させたアンリ・マティスは彼の絵を見て激怒したと言う。それ程までに1907年当時、ピカソの絵は衝撃的で受け入れられなかったものなのだ。


 ルネサンス以来、一つの視点から描かれていた絵画は、ピカソの手によって打ち壊された。それまでは写真のように平面上で奥行を表現する方法で、絵画は描かれていた。だがそこで、ピカソは多視点を用いたのだ。一つの視点からではなく、様々な方向から見たものを平面上の中へ描き出していく。これは当時の芸術界において、到底受け入れ難いものだった。だが、これ程までに画期的な絵画があっただろうか。否、無かった。


 前回はアンリ・マティスのようにクリスはこの世界のアート界に色彩の革命を与え、マティスが憤慨したピカソの絵のように、自ら、形態の革命を起こしてしまった。なんて皮肉で、素晴らしいことだろうか。彼は己自身に、革命をもたらしたのだ。彼自身のみではなく、記憶石にもだ。前回は記憶石には表現出来ない色だった。そして今回は、記憶石には決して真似出来ない多視点を取り入れたのだ。


 私は感嘆しながら、口をどうにかこじ開けた。


「これは……」


「凄いっす……」


 次の言葉を紡ぐようにサンダリアンが呼応してくれた。クリスはまた一言一言に想いをしっかりと乗せるかのようにまた続けた。


「皆が美男美女に描いてほしいと僕に申すなら、モルファーさんはその第1人者になるべきだと僕は思ったんです。……モルファーさんは誠実な方です、とても。僕が描くものを最初から最後までずっと信じてくれていました。僕がやることに一切文句も言わずに嫌な顔もせず、懸命にここまでつきあってくれました」


 クリスが自身よりもかなり大きなモルファーを見上げ、暖かな眼差しを向けた。その彼が口を開いた。


「自分は……」


 モルファーの太くて低い声が研ぎ澄まされた空気に乗った。彼は今までこのクリスの絵とどのように向き合い、ここまで何を感じてきたのだろうか。そして、この絵を受け入れてくれるのだろうか――


「今まで自分はクリス君の傍でこの絵とひたすらに寄り添ってきた。彼は必死に考え、想いを巡らせ、自身の命を削りながら真剣にこの絵と向き合い、そしてこのモルファーとも心の奥底から対峙してくれた。過去、これほどまでに自分と向き合ってくれた者は誰もいなかった……。彼が描いたこの肖像画は、自分という存在を最大限に引き出してくれている。きっと苦しいこともあっただろう。だが、投げ出さずに最後まで描き上げてくれ、非常に感謝をしている」


 モルファーは柔らかく微笑んだ。そしてクリスへ右手を差し出した。


「自分はこの絵を討伐ギルドへ登録しようと思っている。……いいかい?」


 モルファーはクリスへ朗らかに尋ねた。その言葉に一体どんな真意があるのか、クリスはしっかりと理解したようだった。


「ええ、もちろんです……!」


 クリスのほっそりとした右手がモルファーの大きな手をしっかりと掴んだ。モルファーを澄んだ青い瞳で真っすぐに見つめている。その透き通った眼は見とれるほどに美しかった。彼にまとわりついていた張り詰めた空気が少しだけ溶けていった。


「……クリスの言いたいことはよく分かった。他の画家達とか黙ってはいないかもしれないぞ」


「分かっています。覚悟は出来ています」


 クリスは未だに青白い顔のまま、力強く言い放った。その目の奥には熱く燃え上がる灯が光っていた。彼は彼なりに美を追求し、ここにたどり着いた。周囲に何を言われても、彼をここまで追い込んだのは、彼自身だ。私は力強く頷き、彼の細い右肩に手を置いた。


「よくやったな! クリス!」


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