2章 20.彼に尋ねてみた。

 私は直ぐ様、青白い顔をしたサンダリアンと一緒に倒れたモルファーへ駆け寄った。


「モルファー!!」

「モルファーさんっ!」


 今ではサーザント家の華麗な庭の中心は、まるで上空から駆られたかのように荒れ放題だった。その爪痕の中心には、朽ち果てたようにうつ伏せに倒れているモルファーがいた。


 彼の鍛えられた上半身は今では真っ赤に染まっている。掌は目を当てられないほどだった。パーティーの夜、彼と握手を交わした際、酷く傷だらけの手であったことを思い出した。今ならその理由が理解出来た。彼は術符の発動に幾度となく耐え、ここまでやってきたのだ。顔にある大きな傷もきっと術符の鍛錬で出来たものなのだろう。


 茫然ぼうぜんとした父親の腕を振りほどき、クリスが足をもつれさせながらモルファーへ急ぎ、駆け寄った。


「モルファーさんっ……、モルファ―さんっ!!」


 クリスは、彼の上半身の傍で膝を付き、血の気が引いた顔で何度も彼の名を呼び続けた。その時、力ない声が微かに聞こえた。


「クリス君……」


 クリスは彼の顔の傍で伏せるように背を丸め、言葉を詰まらせながら訴え続けた。


「なぜ、このような事を……。なぜ……。僕は、もう……」


「……大丈夫だ。君も、そして、自分も……。決して、記憶石には、……屈しない」


 モルファーが最後の力をふり絞るように顔を上げ、言った。そして、事切れたかのように顔を地へ伏せた。


「モルファーさん!!」


 クリスは彼の傍らで、頬にたくさんの雫をまとわせながらまた彼の名を叫んだ。


 記憶石、彼はずっと以前からその石を打ち負かしていたのだ。彼が示したのは、決して記憶石には負けていないという、揺ぎ無い存在意義だった。今、クリスへその生き様を晒した。それはどんな姿よりもカッコ良く、どんな姿よりも不恰好な、気丈な勇姿だった。


 その時、背後から慌ただしい大勢の足音が響いてきた。


「お前達、何をやっている!! こんな街中であのような巨大な術を無数に放つとは……! こやつは誰だ!?」


 付近の取り締まりを行っている国に仕える兵士達だった。緊迫した顔でサーザント家の敷地内に進行してきた。


「万能魔術士、バラスト・モルファーだ……」


 私は静かに伝えた。すると髭を生やした一人の老兵士が目を見開いた。


「あの魔術士と言うのか……! しかしこやつはなぜこれを付けておる……!? これは術符発動機だぞ!? これはまだ世には出回っていないはずだ。……まさか」


 何かに気が付いたのか、その老兵士は口をつぐみ、彼へ近付き、目も向けられそうにないほどに怪我を負った腕を持ち上げ、脈を測った。すると近くの若い兵士へ早急に担架を持ってくるよう指示を出した。まだ生きている、そう声が届いた。しばらくするとモルファーは担架に乗せられ、そのまま病院へ連れて行かれてしまった。私達はただ彼の無事を祈るしかなかった。


 無残な姿となってしまったモルファーの覚悟を今、はっきりと見た。彼が長い時間、隠し通し続けていたその真実を。空からは彼の生き様を物語るように、火の粉や氷の破片が未だに荒れた庭園へ優しく降り注いでいた。


 それは記憶石、術符の残骸――


「……クリス、君の夢は何だ。私達はいつまでも待っている」


 ずっと止むことなく目の前で泣き崩れているクリスへ伝えた。サンダリアンからは鼻をすすり上げる音が聞こえる。


 クリスはそのまましばらく泣き続けると、思い立ったように雫に溢れた顔を腕で力強くぬぐった。そしてすっと立ち上がり、その顔を両親へ向けた。蒼く輝く瞳に、燃え上がるような灯火を乗せて。


「父上、母上……。僕は、僕の夢は立派な画家です」


「クリス! あなたは私達を捨てるのですか! このサーザント家を!!」


 クリスの母親が泣きながら叫んだその時だった。


「もうおよしなさい、二人とも。クリスの親なら、子供の将来を応援してあげるのが一番よ」


 屋敷からゆっくりと出てきたのは気品ある白髪姿の老婦人だった。


「お義母さま! ベッドから出られたのですか!」


「母さん、休んでいないと……!」


 クリスの両親が心配そうに駆け寄った。だが、その老婦人は病人とは思えない程に毅然とした態度だった。その動きはとてもゆっくりだったが、杖をついて一歩一歩しっかりと足を踏みしめ、クリスへ向かって歩み出た。


「ばーちゃん! お身体に触ります!」


 クリスが気遣うようにそう言うと、老婦人はにっこりと微笑んだ。その表情はクリスに似ていた気がした。


「クリスや、あなたがここまで頑張ってきたからそのような友人達が出来たんでしょう? 聞いてみなさい、その友人達に。きっと私と同じことを思っているはずですよ。もうあなたは立派な画家ですよ、と」


「ばーちゃん……」


 ふふっといたずらっぽく笑う老婦人。その笑顔にもやはりクリスの面影があった。彼女はきっとクリスの祖母サーザント・ミラだ。若き頃、画家を目指し、諦め、貴族として生きた者。クリスの師匠であり、画家への道を志すきっかけを与えてくれた者。そして、クリスを唯一応援してくれた者だった。その微笑みには、これまでクリスを想ってきた慈悲に満ちた暖かな時が刻まれていた。


 クリスはすぐに祖母へ駆け寄り、そっと身体を支えた。そして上着の胸ポケットから丸いものを取り出した。それは夕日にキラリと一度だけ反射した。私は思った。どの金貨よりも美しい存在だと。


「ばーちゃん、ずっと応援してくれて、本当に……、ありがとう」


 彼は祖母の右手にそっと金貨を握らせ、また頬を湿らせ、笑った。そして力強く両親へ向かって、宣言した。


「僕はまたここへ帰ってきます。……画家として」


 その言葉を聞いてクリスの父親は大きなため息を付き、母親は項垂れ「もう好きになさい……」とぼやいた。その隣ではクリスの祖母が始終幸せそうにいつまでも微笑んでいた。サーザント家とクリスの間に終止符が打たれた瞬間だった。


 夕闇の空の下で、クリスは彼らへ潔く踵を返した。そして目の前に佇む私とサンダリアンの顔を見つめると、勢いよく走り寄ってきた。青い瞳に涙をたくさん貯めて。彼は体当たりするかのように私達へ思いっきり飛び込み、それは自由に弾けた。


「戻ります、僕達の家へ……!」


 彼の雫は、また輝き出したあの一番星のように美しくきらめいていた。クリスの世界はまたここから始まる。私達と共に。

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