第1話

「紫乃そろそろ帰ろ」

 結仁は海沿いに並んだ桜を見ている少女に言う。少女は満開の桜には目もくれない。ガードレールに肘を乗せ、じっと海を見ていた。フリルつきの白シャツと、真紅のロングスカート。鮮やかなブロンド。儚げな雰囲気のルーズサイドテールが潮風に揺れた。結仁は自分が渡した赤色のシュシュを紫乃がつけているのを見て。嬉しい気分になった。黙って横に並ぶ。

 ビルを横に倒したような大きさの船が汽笛を鳴らす。長音が三度。結仁たちの心臓が震えた。船は重々しく動き出し水をかき分け進む。

「ねぇ、結仁」

 黒く深い瞳で紫乃は結仁の方を見た。船はだんだんと遠ざかっていく。

「どうしたの?」

「私……いつかね。海を渡って帰りたい場所があるの、その時貴方はついてきてくれる?」

 結仁には分からなかった。紫乃の帰るべき場所は入居したばかりの新しいマンションだ。けれど紫乃の憂いを込めた遠くを見る表情から、そうはないのだと結仁は察した。あの事件以来、大人びてしまった紫乃の瞳は泣く寸前の子供のように揺れていた。ならば兄の言うべきことなど一つしかない。

「もちろん。ぼくが紫乃のお兄ちゃんだからね!」

 結仁には紫乃のきゅっと閉められていた口元が少し緩んで見えた。




「おばあちゃん見て」

 結仁は家に帰ってきて、すぐさまランドセルを捨てた。真っ先に祖母に学校から貰ってきた答案用紙を渡す。祖母は老眼鏡をかけて紙を見ると、怪訝そうな表情をする。

「そう……ね、けどもうちょっと頑張った方がいいわ。妹に負けないようにね」

「はい……」


「妹に負けないようにね」

 それが結仁とその妹を引き取った彼女の口癖だった。結仁の両親が火事で死んでからは母親の祖父母が結仁の新しい両親となった。

「ただいま」

 扉が閉まる音と一緒に無愛想な声が聞こえる。紫乃は小さな赤い靴を靴箱にしまうと玄関から入ってくる。結仁の黒髪とは違う茶髪の人形のような少女。

「あら、お帰り。紫乃ちゃん」

 祖母は陽だまりのような笑顔を彼女に向ける。紫乃は鋭い目つきだ。祖母が嫌いなのかも知れないと結仁は思った。

「夕飯は手伝うから作る時に呼んで。……お兄ちゃん、ただいま」

 恐る恐ると言った感じで紫乃は結仁に話しかける。家族なんだから遠慮しなくてもいいのにと結仁は思った。

「おかえり、紫乃」

 結仁はそんな妹が例え祖母から依怙贔屓されているとしても嫌いではなかった。


 尖った鉛筆の先が割れて、木製の勉強机の上を転がる。結仁はぼーと砕けた破片を見つめていた。気を取り直して再び参考書をめくって書きながら学ぶ。学校から帰ってくると毎日のように学んでいた。妹に負けたくない、その一心で。

 

「紫乃ちゃんは本当に料理が上手くなったわね」

「ありがとうございます」

 紫乃は興味がなさそうに祖母の言葉に返答する。結仁は肉じゃがを口に運ぶ。もう既にスーパーで売っている品よりも遥かに美味しい。

「お兄ちゃん、美味しい?」

 心配そうな顔で紫乃は結仁の顔を覗き込んでくる。これが紫乃を嫌いなれない理由だった。紫乃はいつも遠慮がちで、顔色を伺う癖があった。

「美味しいよ。いつもありがと、紫乃。よかったらぼくにも」

「駄目。私がお兄ちゃんの料理を作るの」

 断固拒否。蜂の巣を突かれたように紫乃は鋭く断言する。

「紫乃、お前が賢い子なのは分かるが、兄の面目ぐらい立ててやれ。あまりにも無理なら自分でやめるだろう」

 寡黙な祖父が重々しく口を開く。

「けど、危ないし」

 「危ない」「危険」紫乃はいつもこういうことを言う。結仁の記憶では結仁も紫乃も大怪我になったことはない。ただ祖父母から両親が死んだ火災で妹は結仁を連れて家から飛び出してきたということは聞いた。その影響なのかも知れない。

 結仁にとってはその四年前の記憶は思い出せない夢でしかなかった。両親の顔もどこか朧気になってしまって写真を見ると、何かが違うという気分になる。


「本当にやるの?」

 翌日の昼、結仁は台所に来ると紫乃に言われる。紫乃は既にフライパンに油をしいていた。

「何作るの?」

「そぼろ。じゃあ、ほうれん草だけ切って。左手はちゃんと丸めてね」

 

 拙いながらほうれん草を切っていると結仁は誤って左手の人差し指の皮を薄く切る。ツーと傷口から血が溢れてくる。そぼろを焼いていた紫乃は結仁の方向を確認せずにすぐさま火を止める。

「お兄ちゃーん。血が出てるよ」

「ちょ、ちょっと切っただけだから」

 紫乃は急いで結仁に近づいてくる。結仁は紫乃を安心させるために黙って左手を差し出す。

「ほら、全然大丈夫だって、洗っとけば……」

 紫乃が傷口からゆっくりと流れる血を食い入るように見ていた。血走った眼球。結仁の人差し指にぬらりとした温かさが伝わる。紫乃は傷口を舐める猫のように指を口にふくんでいた。軽く吸引されて圧迫される。結仁は血が吸われる感覚を味わいながらボーと紫乃が指を舐めるさまを見ていた。

「はい、救急箱持ってくるから水で洗っといて」

 紫乃は呆けている結仁を置いて自室に入っていった。さっきまで流れていた血はもう止まっていた。


「なんで、なんで、紫乃ばっかなんだ。ぼくだって頑張ってるさ。毎日帰ってから勉強してるし、なのになんで……」

 結仁は食事の席でそう言い放つ。立ち上がって自室に潜り込んだ。祖父母の家に来てからあらゆる点で結仁は紫乃に勝つことができなかった。料理も洗濯も、テストもスポーツも紫乃はそつなくこなしていく。紫乃の優しさを知っていた結仁はそれでも恨んだり、暴言を吐いたりすることはできない。自暴自棄になって引きこもるというのが最適解だった。

 結仁は暗いままの自分の部屋の布団で、休日にしか使っていなかった携帯ゲーム機の電源を入れる。時間さえ注ぎ込めば、評価される空想の世界は結仁にとって安らぎだった。イヤホンを差し込んで耳をふさぐ。

「結仁は何もしなくていい。そうすれば私がすべて守れるから。守り抜いてみせるから」

 薄く開いた扉の隙間から紫乃が安心した表情で結仁を見ていた。


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