第28話

 夜風が感じた熱を冷ます。結仁の眼球が闇を照らすように淡く鈍く赤く光った。

「付近に居ます」

 耳元に当てたスマホで結仁は話す。

「了解。佐藤が向かうわ。結仁君は……」

「ぼくも行きます」

 結仁は食い気味に言う。

「しょうがないわね。……死なないでね」

 藍の声が止まる。すぐさまポケットに携帯をしまう。

「父さん、母さん……ぼくに妹を守る勇気を下さい」

 結仁はいつも嵌めている指輪を左手の人差し指でなぞり言う。

 背を低く。体勢を整える。一気に疾走。車の外から見た景色のように結仁の視界の中を建物が後ろに飛んでいく。冷たい風を切りながら僅かに痛みが強まる方向に走った。

 

 足を杭のように地面に押しつけ摩擦で急停止。結仁の視界の端に一対の赤が見える。どこにでもいるサラリーマンだ。沈んだ気分でゆっくりと家に帰っていく。その首が結仁のウイルスに反応してこちらを向き始める。

「見つけた!」

 結仁はすぐさま警棒を伸ばす。見た目のシャープさからは想像できないほど重たい鉄の棒。結仁は躯から視線を外す。躯を追跡する男がいた。一気に後ろに接近。警棒を横殴りに振るう。風切音をあげ空振る。帽子を被った男が結仁から距離を取る。右手に握っていた小さなナイフを投擲。銀色の煌めきが一直線に結仁の赤い眼球に飛来する。

 結仁は意識を集中。研ぎ澄まされた感覚が体感速度を早め、視界がスローモーションに変わる。警棒を横にしナイフを弾く。結仁は男の帽子で隠れていた瞳が恐怖に染まっているのを見た。男は苦い顔しながら銃口を結仁に向けた。真っ黒な自動拳銃。トリガーに指がかかる寸前。結仁は警棒で銃を地面にはたき落とす。帽子の男の左腕には既に新しいナイフが握られている。結仁の脳に突き刺そうと、一気に前に突き出す。結仁は咄嗟に白い手のひらでナイフを握った。肉に突き刺さり血が出る。痺れるような痛みが結仁を襲う。それでもなおナイフを握る手に力を込める。ナイフは結仁の頭に刺さることなく止まった。

「お待たせーー!」

 男の背後から佐藤が拳を叩き込んだ。男は前のめりになって結仁にもたれかかる。結仁は鋭いパンチを腹にお見舞い。男はうめき声をあげて気絶した。

「結仁、大丈夫か!?」

 佐藤が結仁の右手から垂れる血液の量を見て近寄る。

「これぐらい……大丈夫ですよ」

 結仁はポケットからハンカチを取り出して手のひらにきつく巻きつける。血は徐々に止まり始めていた。

「大丈夫じゃねぇよ。何度も言ってるけど無茶をするな。お前が死んだらどうすんだよ!?」

 佐藤が声を荒げる。結仁は自嘲気味に笑った。

「誰も悲しみませんよ。気にすることじゃない」

「お前な……少なくとも俺は泣く。久しぶりに泣いてやるぜ。無理すんな、そう簡単にゃお前のお姫様にはお会いできねぇよ」

「はい……すいません。分かってます」

 結仁は言った。




 ニックは純白の皿にもられたマルゲリータをフォークでくるくると巻いて口に入れた。天井には豪華絢爛の象徴たるシャンデリアがぶら下がっている。何か法則性でもないものかとニックは天井を見上げた。周りにはたった二人のウェイター。透明な壁には夜さえ満足に眠れぬ都市が広がっていた。ビルの中にはちらほらと明かりがついている。

「どうですかな……ニックさん?」

 右腕に数珠を着けた男が樽のような腹をさすりながらワインを飲んでいる。黒のはちきれそうなジャケットとズボンは見るからに高級そうだ。長い白髪をかきあげた。

「Orgoglio、良い店でしょう。景色も良い」

「そうだね、浅宮君」

「信者には羅刹大明神で通っていますので、そちらでお呼び下さい」

「羅刹君」

 ニックは心のなかで笑いを堪えながら素直に言った。ニックの嘲笑が伝わったのか浅宮の顔は不快そうだ。

「あなたは十年前と変わりませんね?」

「そりゃどうも。このマルゲリータは確かに美味しいね。アメリカのやつにも負けないと思うよ」

「それは良かった。ニックさんほどの財産をお持ちだとこの店でさえお口に合わないかといつも不安になりますよ。イタリアンを選んで正解でした」

 浅宮はフォークで綺麗に巻いた巨大なペペロンチーノを口に頬張る。頬についた真っ白なナプキンで油を拭った。

「イタリアンだったら……ボクはキングオブピザの方が好きだな。てりやきチキンピザは日本の傑作だよ」

 浅宮が眉をひそめる。

「BCでも良いね。ボクには金出して頼む料理よりも家庭料理の方が口に合う」

「……私はそうは思いませんが」

「それも良いんじゃないかな。食の好みなんざ人それぞれさ」

 ニックはさっさと席から立ち上がる。

「それじゃ、例の件はよろしく」

「……ええ、もう一度末永くやっていきましょう」

「それは状況次第さ。……ああ、食事代は各自で頼むよ。あいにく、ボクは年上の男に奢ってやる趣味はないんだ」

 ニックは颯爽と出ていった。

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