第16話

 夏も終わりに近づいてきた。生暖かい夜風が結仁の頬を切る。浮遊感を感じながら自分を姫のように抱きかかえている紫乃の顔を見る。赤いネグリジュは夏とはいえ少し寒そうだ。慣れているのだろう。人間では通常は体験できない速度で走っているにも関わらず恐怖は微塵もなさそうだ。結仁の眼下には見慣れたビル群が広がっていた。人々は集団になって法則性を持って動く。自由意志など存在しないか如く。オフィスの窓から紫乃たちを見た男が何度も目をこすっていた。強烈な衝撃が結仁に伝わる。紫乃はビルの屋上に静止した。

「……見られてたけど大丈夫なの?」

「お兄ちゃん……人が空を飛んでいるって言われてどう思うの?」

「そりゃ……たぶん言った人が変な人だと思う。それか個性的な人」

「どっちも同じ。誰も信じない。例え写真を取られたとしてもね。誰も信じなかった。それに、……結仁は答えなくていい。約束を破ることになるから。これは独り言。それにそんな写真が出回ったらその組織は隠蔽しようとするわ。それが日本政府の方針だから。私みたいな吸血鬼は存在しないのよ」

 目を細め、寂しげな表情で紫乃は言う。

「お兄ちゃんは吸血鬼もどきのいる場所が分かる?」

 結仁は瞼を閉じて意識を集中させる。じんわりとした熱を感じる。

「近くに居ると……思うよ。それ以上は分からないけど」

 結仁は頭を振って痛みを取り払おうとする。紫乃はじっと何もない夜を見つめた。

「あっちの方角にいる。私も完全に位置を掴めるわけじゃないけど、お兄ちゃんよりは精度いいかも」

 冗談交じりに紫乃は笑う。

「あれに会ってどうするの。危ないだけだよ。近づいたらバレるし」

 結仁は襲われたときのことを思い出す。尋常ならざる筋力だった。今の結仁とも比べ物にならない。たぶん先日襲ってきたベルゼの人間よりも筋力だけなら強い。

「お兄ちゃんは襲われた時、どれぐらい近づいてたの?」

「眼視できる程度には」

 紫乃がため息をつく。

「それは近づきすぎ。そんなの誰だって気づくよ。…………」

「どうしたの?」

 紫乃は突如沈黙する。

「ごめんなさい……結仁、もしかしたら私のせいでこの騒動に巻き込まれたのかも知れない」

「どういうこと?」

 紫乃は手の震えを抑えるように結仁を持つ腕に力を込める。結仁は「ごめんなさい」と言ってる時の紫乃が苦手だった。罪悪感に胸が押しつぶされそうになる。

「ゼブルウイルスは……感染者と血液の媒介があると感染する。ちょっとした接触だったらほとんど発症せずに勝手に消えるんだけど……。もしかしたらそれで引き寄せられたのかも知れない」

 結仁はそんなことかと思った。紫乃の秘密を話して貰えていなかったショックよりもよっぽど優しい。

「そりゃー痛い思いはしたけど。怨まないよ。助けてもらえたし、それに色々護身術とか教えてもらってるんだ。紫乃をベルゼから守りたいと思ってたから。けど……紫乃はぼくより強いよね」

 結仁は残念そうに言う。妹を守りたいという思いが結仁を今まで動かしていた。紫乃は結仁から目をそらした。

「そんなことないよ……結仁。私は弱いから。力じゃなくて精神的に。きっともう駄目なんだと思う。結仁を絶対守るって決めたのに失敗ばかり。今だって結仁への罪悪感で舌を噛み切ってしまいたい。私は弱くて駄目な吸血鬼だよ。あの人達みたいになれたら良かったのに」

 紫乃は遠くを見つめて言う。

「よく分かないけど紫乃ならなれるよ。ぼくの妹なんだから、何だってなれるさ」

 紫乃は急に顔を歪めて唇を噛みしめる。

「どうしたの紫乃」

 紫乃は頭を振る。

「引きこもりのお兄ちゃんの妹じゃ、自信ないよ」

「元だよ、元。最近はバイトしてるし、友だちもいる。まあ……八割以上紫乃のおかげなのは間違いないけど」

「頑張って勉強したのはお兄ちゃんだよ」

 紫乃は苦笑い。

「……安心した」

「どうして?」

 訝しげに紫乃は聞く。

「紫乃が吸血鬼だって分かった時、ぼく怖かったんだ。明日が日が昇ったら紫乃は伝承みたいに消えちゃうんじゃないかって、霧になってぼくの前から居なくなるじゃないか。そんなことばかり最近考えてた。けど紫乃は紫乃だった。変な力を持ってても妹は妹だよ。だからこれはぼくが引きこもったみたいな問題と同じなんだってそう思えた。きっと解決できるよ。ベルゼもあの人達がいずれなんとかしてくれと思うし」

「そうかも……しれない。じゃあ結仁、だいたい相手の位置が分かったからまた移動する」

「……本当に紫乃が殺さなくちゃいけないの?」

「うん。私の役目だから……。皆を守るためにもやらなくちゃいけないの」

 紫乃は急激に速度をあげて走る。ビルの屋上から飛び降りた。


 結仁は三階建てマンションの屋上で地上に降りた紫乃を見ていた。腕には前回見たときよりも槍に近づけて作られた結晶の棒が握られていた。「血液結晶化能力……それが私達人造吸血鬼が持つ異質な力」結仁は紫乃の言葉を思い出す。

 紫乃の目の前には眼球が赤く発光した女性が立っている。眼球はぎょろりと狭い通路に立ちふさがる紫乃に引き寄せられる。紫乃は槍を慣れた手付きで回転。切っ先を敵の方向に突きつける。

 結仁が瞬きした合間に女性は髪を振り乱し飛んでいた。壁を足で蹴って横から紫乃の小さな身体に掴みかかる。暴風とともに紫乃の槍が女の脳を貫通した。女性だったものは口を開いて鋭い牙を見せたまま絶命。

「ごめんなさい」

 紫乃は死体に言った。


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