第3話
依存性さえありそうな甘い匂いが結仁の鼻孔をふんわりとくすぐる。柔らかな圧がきめ細やかな繊維ごしにかかる。ぼやけていた視界がゆっくりと戻ってきた。
黒の靴下が結仁の頬を突いていた。毛の一つもない滑らかな。漆黒のスカートの中にある天使の羽の如き純白のフリルがついた下着が結仁の目に写っていた。黄金の髪と、不服そうに細められた端正な顔立ちは天使でさえ凌駕することはできないだろう。わずかに盛り上がった双丘が少女を強調する。
「おやすみ、紫乃ー」
「お兄ちゃーん、いい加減怒るよ。てか起きろ!」
紫乃はゲシゲシと軽く力を入れて踏みつける。
「おはようございます。パンツ見えてるよ」
「朝ごはんもう作ってるから一緒に食べよう」
結仁の発言を無視。紫乃は役目を果たすと早々に部屋から出ていく。結仁は白い天井を見上げながらベッドから起き上がる。扉を開けて、部屋を出て洗面台に向かう。鏡に映った少年は二年前とは比べ物にならないほど生気に満ちていた。中学生の頃、女のようだと言われていた線の細い顔立ち。吸い込まれそうな漆色の短く切った黒髪から覗くブラウンの瞳。
「見せる相手もできたから少しは気を使わなきゃね」
結仁は言った。
「はい! お兄ちゃん。今日はプラツキの日です」
紫乃はリビングの椅子に座った結仁に白い皿を出す。上にはホットケーキに似た黄色の生地でできた薄い円盤が乗っていた。
「紫乃は珍しい食事が好きだね?」
「プラツキは国民食です」
「じゃがいもなのにパンケーキなんて大丈夫なのかなって最初は思ったけど、美味しいよね」
「思ってたんだ……」
紫乃は珍しくショックを受けながら自分の席に座る。
「毎回、こんなこと言ってるけど紫乃の料理が美味しいよ。たびたび出てくる異国料理も楽しみ」
「私がブログを続けていくためには必要だから協力お願いします。お兄ちゃんの感想もそれなりに人気だから随時募集中」
紫乃は楽しそうに言う。結仁はテーブルの上にある魔法瓶に気づいた。
「紫乃先生……本日のお弁当はなんですか?」
「カレーです」
「ありがとうございます」
結仁は頭を下げた。
結仁は自分の部屋に戻るとクローゼットの中を覗く。服たちの中に異質な白のTシャツがかかっている。「妹LOVE」と書かれた結仁のお気にいりの部屋着である。そして紫乃の最も嫌いな服である。隣にかかっていた白のワイシャツを取り出す。
学生服に手早く着替える。勉強机の引き出しの中には指輪があった。二つの指輪だ。0.3カラットの結婚指輪と銀色の指輪。結仁は右手の薬指に銀の輪をつけた。
「行ってきます。母さん、父さん」
元々は祖父母が持っていた両親の仲睦まじい交際期間中の写真を前に結仁は言った。
「お兄ちゃーん、あんまり遅いと先行くよ」
玄関から紫乃の声が聞こえる。
「すぐ行くよ」
結仁は黒のリュックを背負うと走って玄関に向かった。
扉を開けると結仁は強力な夏の日光に目を細める。晴天だ。紫乃が足で地面を突いて靴の踵を合わせていた。識恵学園の女子の制服は県外からも人が集まるほど人気だ。中等部は黒のミニスカート、灰色のセーラ服がスタンダードだ。胸元にあしらわれた赤いリボンがギャップを作り出す。それに加えて外出する時の紫乃はいつも結仁が去年の誕生日に渡した赤色のシュシュで左側でルーズサイドテールを作っている。
「ありがとう紫乃」
「えっ、キモいから辞めて」
「口悪い!!」
「たまにならいいけど……。毎度毎度見るたびに言われると流石に辛い。お兄ちゃんって私の彼氏なの?」
結仁は顎に手を当てて考え込む。
「真剣に考えなくていいから。内の兄に彼女は一体いつできるのやら、楓さんがお勧めだよ」
紫乃はため息を吐きながら言った。
結仁たちの家から私立識恵学園まで徒歩10分はかかる。東富市の中心から離れているとは言え、周りは人でごった返しており、物に溢れていた。周囲の人間の熱気が結仁にも伝わる。信号が変わると一斉に雪崩のように人が動く。車は長蛇の列を作り歩行者が通り過ぎるのをじっと待っていた。軽く上を向くだけでは高層ビル群に遮られて空さえ見えぬ都市。それが関東地方にある東富市だった。
「紫乃って何でそんなに楓が好きなの? あんまり関わりなかったイメージだけど」
結仁は隣を歩く紫乃に少し大きな声で話しかける。
「お兄ちゃん見る目ないなー。胸が大きいでしょ」
「胸の大きさで女の価値が決まるなら紫乃の価値が下がるからその意見は不採用」
「その返しは斬新だ! あと、流石に往来で言わないでほしい」
紫乃は結仁から目をそらして言う。
「ごめんなさい」
「うーむけどそれは朗報」と紫乃がボソボソと言いながら軽く自分の胸を触っていた。
「冗談。楓さんは頭が切れるからお兄ちゃんを任せても安心だなー。と思うだけ。あとお兄ちゃんが知らないだけで私は楓さんと連絡先交換してるから」
「初耳なんだけど! けど楓はぼくの友達だよ。頭が良いのは分かるけど、恋人とは違うかな」
「脈アリの女の子は狙っておくべきだと兄に進言します」
結仁たちが歩いていると柏田書店が見えてくる。全国に展開している本屋だ。
「紫乃、ぼくは今日もアルバイトがあるから少し帰るのが遅れる」
「別に働かなくていいのに」
「ちょっとでも自立したいんだよ。紫乃には到底追いつきそうにないけど」
高校に入学したばかりの頃、結仁は全力を持ってアルバイト。自立しようとしたが熱で倒れて紫乃に看病されたことで終幕になった。それ以降はバイト時間は妹によって徹底管理されている。
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