第6話
男は縄張りに入った得物を逃さんとばかりに全速力で結仁に向かって迫る。現実を逸脱した恐怖が結仁の間違った理性を生存本能に塗り替えた。未知の恐怖。結仁は迫りくる獣にみっともなく背を向けて逃げ出す。
地面を足が叩く音が急激に近づく。車に迫りそうな速度で男は結仁に接近。一瞬で結仁のワイシャツの首根っこを右手で掴んだ。人間を遥かに超えた筋力で男は体重50kg近くはある結仁を壁面に向かって放り投げた。
結仁が投げられたことを認識した瞬間。壁に叩きつけられた。肺に溜まっていた空気が血とともに吐き出される。頭部がぶつかったらしく思考はゆっくりと薄れていく。ゆっくり、ゆっくりと甘美な死。男が酔ったような足取りで歩いてくる。結仁はこの光景に既視感を覚えた。
壁面の側でうつ伏せに倒れていた結仁の首根っこを男は掴み軽々と持ち上げる。唾液を引き伸ばしながら大きく口を開く。口内には犬歯が異常発達している。一気に結仁の首筋に牙を突き立てた。
結仁の心臓が爆発するかのように急激に膨張する。反転、急激に圧縮して血液を体中に送り出す。
「あ、あああああああああああ」
先程までの優しい死神は去った。血管という血管の内側から針を突き刺されたような激痛が結仁を襲う。視界は湾曲。心臓の鼓動と連動するように連続的に頭痛が訪れる。引きこもっていたせいで未だに白い肌が更に更に白く、青白く病的な身体に作り変えられる。男は雑に牙を抜いて、結仁の顔面を殴り飛ばした。
冷たい地面に倒れた結仁は妄想の中、動かない腕で割れそうな頭を抑えようとするが現実には反映されない。脳の信号を肉体は拒絶する。ぜー、ぜーと肺が出す掠れた音だけが聞こえる。明滅する視界の中で男が拳を振りかざすのを見ていた。
突如、男の首の骨が不自然に横に曲がった。紺色のスーツを来た女性だ。後ろで黒髪を纏め、唇はきつく一文字に結ばれている。整った顔立ちを忌々しげに歪める。藤原藍は男の腕を素早く掴んで体を地面に叩きつけた。藍は男を殴りつけた特殊警棒を放り捨てた。素早くコール。
「ちっ、間に合わなかった。またよまた! 佐藤! 今すぐそっちで手術準備、位置情報を利用して小野寺を派遣して!!」
「躯ですか?」
「ええ、市民がやられてる。間に合うかも知れないから至急準備」
「結果は保証しませんよ!」
藍は飛びかかってくる躯にスマホをただの金属の塊として投擲。怯んだすきに投げ飛ばした警棒を回収。再度相手の頭部を真横から殴りつける。藍は頭蓋が砕ける手応えを感じる。人間ならば確実に気絶する攻撃を食らっても男はよろけるだけだ。プロボクサーを凌駕するスピードの拳を男は繰り出す。藍は反射的に顔をそらし回避。不安定な相手の足を払う。男は無様に転倒。立ち上がろうと地面に手のひらを押し当てる。
「させるわけないでしょ!!」
藍は真上から頭部に向かって鉄の棒を振り下ろす。ぐしゃりと、生々しい音が鳴った。再び持ち上げた警棒にテラテラと月明かりを反射する血液がついている。男の頭に正確に武器を合わせながら藍は再びピンポイントで同じ場所に棒を振り下ろす。幾度となく徹底的に頭蓋を砕く。
地面に倒れた男はもうピクリとも動かなくなっていた。男を中心として血の湖ができている。藍はすぐさま倒れた結仁に近づく。結仁の肌は青白くなり体中から吹き出すように汗が出ている。藍はポケットから小さなハンカチを取り出す。
「ああもう、やっぱ普段から警戒しておくべき! とりあえず止血、血が抜け過ぎてる!」
叫びながら結仁の頭の血を拭って圧迫する。
「大丈夫! 意識を強く持って、すぐ助けが来るから」
結仁は激痛でぼやけた視界で必死に訴えかける藍をぼーと見ていた。
けたまましいサイレンの音が鳴り響く。赤いライトが二人を照らした。
結仁は紫乃と二人で住む東雲マンションに戻っていた。三階建ての建物。屋根は中途半端に綺麗なことが年代を表している。安く、清潔で不便がないそれが紫乃がアパートを選んだ際の判断基準だった。
結仁は階段を一つ上がって廊下に並んだ自分の家のドアノブを持つ。
「ただいまー」
眉を上げ少し驚いた顔で紫乃は結仁を見る。
「おかえりー、今日の献立は鮭の塩焼きです」
紫乃は言いながら冷蔵庫を開けて用意していた鮭を取り出した。結仁は小走りで準備するエプロン姿の紫乃の背中を立ったまま見ていた。鍋の中にはふつふつと泡が浮かび上がっている。ごぽりごぽりと十分離れているはずなのに結仁の心を不自然なほどかき乱す。
結仁は無意識に強く手を握った。顎に力が籠もって歯が擦り合う。怒りが湧いた。
「紫乃はどうして生きてるの? あの時、絶対人間だって認識できないほどただの肉塊だったのに。どうして紫乃は生きてるの?」
「なに、どうしたのお兄ちゃん? 学校で嫌なことでもあったの?」
結仁は一度吐き出した言葉を間違っていると分かっていても止められなかった。
「おかしいんだよ、おかしいに決まってる!!」
紫乃は異常な形相を見て料理をすぐさま中断して結仁に近づく。
「ぼくに近づくな!」
結仁は内側から膨張する恐怖心に促され言う。紫乃は眉を曲げ、唇をギュッとつぐむ。
「火事があったんだ。紫乃も焼けたはずなんだ。母さんや父さんと一緒に」
「お兄ちゃん、私はちゃんとここにいるよ」
諭すような優しげな声。結仁の頭にカッと血が上った。次の瞬間、結仁は床に押し倒した紫乃を見ていた。
結仁は自分でも驚くほど息が荒いことに気づく。異常だ。いつだって白い肌。結仁が強く握った両腕は柔らかい。
「いたっ!」
苦痛を訴える紫乃を見ると結仁は心の底から満足感が湧き上がってくる。いつだって優しく、いつだって正しい理想の妹。そんな頭の中にあった幻想が壊れていく感覚が甘美な刺激をもたらす。
「大好きだ。紫乃」
結仁は拘束していた紫乃の両手を落ち着いて離す。右手の薬指にいつもつけている銀の指輪を撫でた。右拳を強く握る。
「だけど……矛盾は正されなくてはなくちゃ。間違ったものは、ずれたものは直されなくちゃいけない。そうじゃなきゃ炎に飲まれた皆が報われないから!」
「結仁も……結仁も報われないの?」
恐怖心を感じる瞬間でも紫乃の言葉は枯れ葉すら飛ばぬ静かさ。結仁は猛烈な罪悪感に襲われながらもそれを塗り替える恨みに打ち勝てなかった。
「うん」
「じゃあ、仕方ないね」
大きく息を吐きだして、紫乃は泣き笑いを浮かべた。
「生きて結仁」
結仁は「兄」と呼ばれなかったことにちょっとした疎外感を覚えた。それもすぐ消える。言葉への返答は拳の鉄槌だった。鼻が強打されたことで紫乃の意思とは関係なく涙が出る。結仁の持ち上げた右拳には血がべっとりとついている。でもまだ満足しない。殴れば殴るほど、紫乃の綺麗な顔が歪めば歪むほど正しいあり方なような気がした。
立ち上がった結仁は意思のない人形になった紫乃を呆然と見下ろしていた。殴りすぎて結仁の右手の皮が裂けている。小さな赤い海の中でさえ少女の人間離れした白色の肌はどんな宝石にも劣ることはない。
静かになった部屋に満たされながら結仁はさっきまで紫乃が使っていた銀色の包丁を手に取る。まだ少し温かさが残っている包丁の刃に死人のように青白い結仁の顔が映った。壊れたような笑みを浮かべている。口元には鋭い犬歯がのぞいていた。
「ぼくもそっちに行くよ、紫乃。母さん父さん。みんなのもとにぼくは帰るんだ」
結仁は包丁を頭に刺そうとしたが怖くてやめた。心臓に思い切り突き刺す。意識が急激に薄れていく。床はどんどんと赤い泥に沈んでいく。これで正常だ――結仁は思った。
怖い。怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い。結仁は自分の感情が頭の中に侵食し広がっていくのを感じた。紫乃死なないで、紫乃紫乃。真っ黒な黒闇は泥の腕で結仁の身体を現実に引き戻す。紫乃は死んだのだと。
結仁の涙でぼやけた視界に白い天井が映った。霧に包まれたような思考の中、右手をあげる。右拳はちっとも赤くなっていなかった。相変わらず病人と見紛うほどの白。女性のような細い指だ。起き上がろうとすると強烈なだるさを感じる。体中が汗ばんでいる。結仁の頭の上にひんやりと濡れたタオルが置かれた。
「ふー、良かった目を覚ましたのね」
スツールに座った藍はゆっくりと話しかける。結仁は咄嗟に声の方に振り向く。軽く咳払い。
「色々質問はあると思うけど後回し。あなたは事故にあって私達が救助した。それだけよ。今はそれで納得して」
有無を言わさず藍は話を切って結仁にスマートフォンを渡してくる。
「私の仲間のものだけど勝手に使っていいわ。あなたのは事故で画面が割れちゃってるから。パスワードは――」
プライバシーの欠片もなく藍は仲間のパスワードを呟きながらスマホに入力する。結仁は差し出された画面に映った電話アイコンを見て不信感を覚える。
「何をするんですか?」
「電話して安否を伝えてほしいの、あなたの家族に」
「無理です。信用できません」
「でしょうね。じゃあ」
藍はポケットから黒い鉄の塊を取り出す。本物の拳銃だ。結仁は暗い銃口を見て恐怖を感じる。結仁の手を握って藍は無理やり銃身4インチの拳銃のスライドを引かせた。
「危険だと感じたら発砲していいわ。トリガーを引くぐらい流石にできるわよね?」
結仁は信じられないものを見た気がした。
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