第39話

「エルヴィア大丈夫?」

「だいじょぶ」

 エルヴィアは零れそうな涙を抑えて母の言葉に強く返事をする。長い山道でエルヴィアの足はじんじんと痛みを訴えている。それでも歩かないほうが辛いことになるのは目に見えていた。重々しい銃声が遠くから聞こえた。母はエルヴィアの手を握って走り出す。

 エルヴィアは大人の足についていけず転倒。涙が浮かんできた。痛い。まだ幼いエルヴィアの精神を破壊するには莫大な緊張とじんじんと痛む膝で十分だった。お気に入りの赤い靴が地面に転がる。泣き叫びそうになったところを、咄嗟に母が口を抑える。

「はぁ、誰も居ねぇな」

「無駄口を叩くな!」

 鋭い叱責の声。エルヴィアには何を言ってるのか分からなかった。


 母親は狂ったように息を上げエルヴィアが窒息そうなほど口を抑えている。エルヴィアの視界が薄くなる。酸欠で頭がボーっとする。

 ズドンという銃声。エルヴィアは息を思いっきり吐き出した。見ると母は子供を置いて一目散に森の中に逃げようとしていた。枯れ木が音を立てる。もう一発銃声。母は糸の切れた人形のように山の斜面を転がっていた。胸のあたりから血液が溢れている。

 エルヴィアはヒッとくぐもった声をあげる。森の奥から黒緑色の汚れた軍服の三人組が出てくる。先頭に立っていた男はエルヴィアに向かってボルトアクションライフルの銃口を向けた。腕で体を抱えて無意味な防御姿勢を取る。身体が狂ったように震える。

「餓鬼だな。見ろ。そこで死んでる。女はさっきので命中したらしい」

「……」

 真緑の目をした表情のない男がゆっくりと怯えるエルヴィアに近づこうとする。正気とは思えない黒い目。感情がない。エルヴィアは叫び声をあげそうになる。銃を構えていた壮年の男はエルヴィアに近づこうとした青年の頭を銃床で叩いた。

「この幼児好きがくだらんことをするな! お前のような奴に任せたら誰も生きて帰ってこれん。この少女は本国で捕らえる。いいな!」

 青年は残念そうに空虚な瞳でエルヴィアを見る。舐め回すようなその視線がどうしようもなく怖かった。

「おい! 貴様ついてこい!!」

 壮年の兵士が銃口を突きつけながらエルヴィアに言った。




「痛い痛い痛い! お母さん! 助けて助けてよぉ……」

 エルヴィアは鉄格子の中で腹の底から這い上がってくる悪寒に耐える。たびたび膨れ上がるように痛みが来て意識を刈り取ってはより強い痛みで叩き起こす。とうの昔に涙は枯れていた。白く柔らかった両腕は痛みを紛らわすために掻きむしったせいで血だらけになっている。ヒューヒューとした息をあげながら冷たい牢屋の地面に倒れていた。激痛がゆっくりと収まってきて熱した鉄の棒を押さえつけられたような熱さを体中から感じる。常人なら発狂するような痛みに安堵感を憶えていた。

「お母さん……どうして私を置いていくの? どうして」

 エルヴィアは息も絶え絶えになりながらブツブツと言う。

「ソフィア……、お兄ちゃん。どこに居るの? なんで何も言わないの!?」

 エルヴィアは取り憑かれたように怨嗟の言葉を垂れ流し続ける。ギィと音を立てて鉄格子の扉が開いた。白衣の男がエルヴィアの金髪を掴んで顔を持ち上げる。

「ふむ……生きているな。投与してから何時間たった?」

「はっ! 24時間は既に経過しています!!」

 医師の言葉に見張りをしていた警官が答える。医師はそれを聞いてにやりと笑みを浮かべた。

「おめでとう! 君は選ばれたんだ!!」

 エルヴィアは何の感慨も恨みもなく濁った瞳で男を見ていた。

 

「初めまして、お嬢さん」

 薄暗い地下に似合わないパーティ用のテーブルクロスがかかった長テーブルの椅子にエルヴィアは座っていた。対面には穏やかな微笑を浮かべた暗いブロンドの少年。年は十代後半。中肉中背の細い体をしていて緑色の瞳が輝いている。首元には十字架のネックレスがかかっていた。茶色のシャツと濃い同色のズボンを履いている。エルヴィアは死んだ目で少年の目を見返した。

「これで四人目ね。むさ苦しい男じゃなくてよかった」

 少年の左隣に座った黒髪黒目の白シャツとズボンを履いた女性は興味なさそうにリップを唇に塗っている。

「ドライ……貴様には人の心というものがないのか?」

 少年の左隣に座った長身のロン毛の男が言う。

「しらないわよ、ツヴァイ。なーにあんた? 私にこの子のママの代わりでもしろって言うの? 結婚なんて二度とゴメンよ」

 吐き捨てるようにドライは言う。

「ごめんね。ドイツ語分かんないよね。後で暇な時に教えてあげるよ。幸いここは時間ならいくらでもあるんだ」

 少年は自虐気味に笑った。

 

「この果物なんて言うの?」

「んーと、『ラズベリー』だよ。ぼくの一番好きな果物」

 エルヴィアは頭を捻らせながら見るものすべてをアインに子供のように尋ねる。アインは手の上で創り上げていたラズベリーのオブジェクトを血液に戻した。

「食べてみたい……」

 エルヴィアはぼそりと口にする。

「いつか食べれるさ」

 アインは微笑んだ。


「ああ……フィア! もう、口元についてるわよ」

 ドライがエルヴィアの口元についたスープをハンカチで拭う。エルヴィアは頬を膨らませながらもされるがままにする。

「完全に……母親だなドライのやつ」

 ツヴァイは無表情で言った。

「うっさいわね。誰も望んでないわよ」

 エルヴィアはその言葉の意味を理解して涙が溜まってきた。

「ああーもう泣かないでよ。女の子はそんな簡単に泣いちゃ駄目よ。男に騙されるわ」

 ドライが懸命にエルヴィアの背中を撫でて落ち着かせる。

「そうなの……ドライ?」

 エルヴィアは潤んだ瞳でドライを見る。

「そうよ。男を捕まえるときは絶対に見極めるのよ。一生涯大丈夫な人か」

「うん……分かった」

 エルヴィアは豆スープを飲みながら頷いた。


「――アーメン」

 アインは律儀に祈りを行った後、食事に手を付ける。

「相変わらず貴様は信仰心が深いな。神などこんな世界に居るものか」

 ツヴァイは言う。

「どうだろうね。ぼくにも分からないよ。ただ今日生きられたことに少しだけ感謝してるだけさ」

「はあー、アインみたいな男が最初の夫だったら良かったのに」

「ありがとう。ドライ」

 アインは柔らかな笑みを浮かべながら今日も少ない食料を啜る。

「ツヴァイ、十日後に戦場だ」

「そうか、最悪の気分だな」

「それは同感だ。あの世界はどうも息苦しい」

「アイン……どっか行っちゃうの?」

 エルヴィアは不安になって訛りの入ったドイツ語で話しかける。

「大丈夫。少しの間だけさ」

「運が悪ければ一生帰ってこない」

 アインがツヴァイを睨みつける。ツヴァイは面倒くさそうに視線をそらした。

「ツヴァイもちゃんと帰ってくる?」

 エルヴィアは涙をためてツヴァイに言う。罰が悪そうに頭を掻いた。

「知らん。だが死ぬ気はない」

「うん。頑張ってツヴァイ」

「……」

 ツヴァイは恥ずかしそうに視線をそらした。

「来たるべき時が来たら。ぼくらはやるべきことをやろう。それまでの辛抱だ」

 流暢なポーランド語でアインは言った。エルヴィアにどういう意味か分からなかった。


「カスどもが!!」

 大声をあげて、ツヴァイが石壁を蹴りつけた。鋭い衝撃でガラガラと壁が壊れる。

「やめろよ、ツヴァイ……フィアがいる」

 アインはツヴァイの肩に手をおいて諌める。ツヴァイは苛立たしげに舌打ちをする。壁の隅で座り込んだ。体中がボロボロで血に濡れている。口元には鋭い牙が覗いていた。

「もう少しだよ……」

 アインは自分自身に言い聞かせるように一人、そう言っていた。

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